最近、ある国立大学に指定校推薦で進学が決まった高校3年生に、「いいねぇ、自由に使える時間が人生で最もある時期だね」と言ったら、「いいえ、入学までにやらねばならない課題があって……」と返され、驚きました。
 かなり前から、入試に合格した高校から入学式前に宿題が出されるという「異常事態」があちこちで起きており、中高生の意思で参加する校外活動への影響を懸念していたのですが、「学生縛り」は大学にまで及んでいたのです。

 本来、春休みは担任交代で宿題が出されない、のびのびとした休暇でした。そこには、たっぷり読書をしたり普段忙しくてできない体験をしたり、人間性を磨く日々を創り出し得ます。
確かに教育困難校では、高校なら小卒程度、大学なら中卒程度の学力を持って来て欲しいと課題を与える必要性を感じるのでしょう。それでも、教科学習に何が大切かと言えばモチベーションであり、周知の通り、強いられた勉強ほど効率が悪く、身につきません。進学前に社会に触れ、勉強の大切さが身に染みるような経験ができれば、嫌々やらされる宿題よりもどれだけ生きる糧になるでしょうか。
 往々にして「高校の授業は中学とは速さが違うから入学後について行けるようにするため」「クラス分けのため」などの屁理屈で結構な量の課題が出されるようですが、そもそも、合格証書の授与即ち在学資格を得たことであり、学力も判定済み。先の理由は不合理極まるうえ、まだその学校の生徒でもないので、私は中3のリーダーたちに「入学前に出された課題は宿題に当たらないから、無理にやらなくてよいのでは?」と問いかけています。圧倒的多数は学校に逆らえないでしょうが、生徒に疑問を呈し、考えさせることは大変重要です。
 無論、長いものには巻かれよと思う時はありますが、そればかりでは社会は決して良くなりません。非常電源の屋上への装置を求める稀少意見を採用していたら福島の惨禍は無かった訳ですし、一定の知的集団である教員たちの誰かが良識を発揮していれば公立小の標準服がアルマーニになることも無いのですから。
 しかし、残念なことに校長の権限強化の名の下で、異論者の諦めなのか、盲従なのか、依然として憲法や民法を逸脱した校則が威力を発揮し続け、「春休みの宿題」は無批判に広がっているようです。また、生徒・学生の側も、学校からの単なる要請に対して、何も考えずに義務が課されたのと同様の行動を取り、理不尽な直前の予定変更なども「仕方ない」と受け入れるのが普通になりつつあります。
 前回、大手メーカー等の不正事件を取り上げましたが、不祥事の原因を調べた第三者委員会の調査結果には、さっそく外部から独立性・中立性・専門性に問題が指摘されました。これなど、当事者は解っていたはずのことです。
 私が子どもの頃は、街中でも物を道端や河川に投げ捨てる人や、切符売り場の列に割り込む人がいくらでもいました。そうした大人たちは、戦前・戦中に教科としての修身(道徳)を叩き込まれていた訳ですが、いかにそれが社会進歩に役立たなかったかを物語っています。
 規範やルールは、上の意向ではなく、環境変化に応じた多様な目で見直し、合意形成が図られるべきでしょう。

綾崎幸生(あやざきゆきお)=会代表
[会報『くさぶえ』 18年3月号掲載]