本稿の連載開始は1991年の6月号で、前年に会として「子どもの権利を尊重し保障する社会を」と謳い始めたことを受けています。第1回のタイトルは『仲間をつくる力を育む 班編成は知らない子どもどうしで』で、以来「真に子どもにとっての利益は何か」について考える中で、訴えを重ねてきました。思いがけず31年間も続けて、これが100回めです。
当時は国鉄民営化の4年後、消費税導入の2年後で、まだ看護婦が看護師、保母が保育士に変わるずっと前。携帯電話の普及率はわずか1.1%に過ぎませんでした。それは、ちょうど小室眞子さんが生まれる年でもありました。
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新人リーダー候補生の研修会で、私は「もしも皇室にダウン症児が生まれれば、障害というものがどういうことかの理解が国民に深まるから、決して悪いことではない」という話をしました。そうしたら、ある学生が血相を変えて「他人の不幸を願うなんて、一体どういうつもりか」と抗議してきました。それこそが明らかにしたかった「内なる差別心」の表れだったので、すかさず「不幸? それはあなたの偏見からくるものでしょう」と答えましたが、説明不足だったのか理解してもらえなかったようです。
他方、かつてなら皇族が独立する際にどうしようが、次代の天皇が国立高校に特別枠で入ろうが、特別な世界の人の話であるため、誰もさして気にしませんでした。しかし今、世間でこれだけ問題にされたのは、果たして皇室が身近になったことを意味するのでしょうか。世の中、変わるものだと感じますが、ともあれ皇族の人権がいかに保障されていないかを、私たちは改めて直視する必要があるはずです。
この30年間に、あらゆるハラスメントや差別を許さない風潮が一般化して、仕組みが整えられつつあったり、飲酒運転や人前での喫煙に厳しい目が注がれるようになったりしました。また、性自認や性指向などへの理解が広まってきたり、犯罪件数が減少の一途をたどったりしていることも特筆されます。
少しずつであっても年を積めば、本当に時代は大きく変化し、社会が進歩してきたことを実感します。無論、それらの陰には大勢のさまざまな努力や運動があっての成果です。
そして、変わったのは改善への動きばかりではありません。
特徴的なのは、1990年代後半から子どもたちに見られる、他人の目(ばかり)を気にして本音の通り行動せず、不必要に「なぞって」多数に合わせる姿が非常に強まったことです。場の空気を読むのは、時にとても大切なことだとは思いますが、同調圧力に対して非常に弱く、その結果いつも生きづらさを深く抱えてしまう子どもたちの何と多いことでしょうか(彼らは若者になり、あっと言う間に続々と親世代になっています)。
その主因として、私は改めて小中学校で児童、生徒の意欲・関心・態度を査定するようになった「観点別評価」の実施を指摘しておきます。さらに、会話や言語が未熟なうちに短文でやりとりせざるを得ない携帯メールやSNSの普及が、それに拍車をかけていると危惧しています。酒やタバコを子どもに禁止しておいて(電話機能を除く)携帯端末の所持を許すというのは、他に加わるリスクと併せて極めて疑問です。そう言うとICTリテラシーが育たないではないかと反論されますが、概ね40歳以上は大人になってから機器に触れたのに軽々と乗り越えているのですから、高校生以上になって始めたら遅いとは考えにくいでしょう。
周囲に合わせる言動には、他人は他人、自分は自分で良いのだという気持ちが伴わないと自らを保てなくなり、勢い他者への関心は薄れがちです。「その花を咲かせることだけに一生懸命になればいい」と歌われた『世界に一つだけの花』が2003~4年に大ヒットしたのは、それを如実に示していると捉えられます。
例えば、外国人技能実習生が虐げられている問題や出入国在留管理局での死亡事件に憤りの共感が起きにくいといった社会的課題は、誰かの痛みを自分事に高める人が増えないとなかなか解決に近づきません。
さて、近年もう一つ気がかりなのは、大人がそこにいる意味を果たしていない光景をよく見かけるようになったことです。
先日ある公園の池端で4歳くらいの男児が遊んでおり、脇にいた父親が「(そんなことしていたら)落ちるよ、落ちるよ」と注意していたのですが、案の定その子は池に落ちました。落ちると口先だけで言いながら事実上放置していたのですから、言わば当然の結末です。商品棚の菓子を触るなととがめながら阻止しない親も「触っても良い」と伝えているのと同じです。
寒くない日でも走り回っている子にダウンジャケットを着せているのは、無頓着なだけなのか子どもの立場になれないのか。
子どもの意志が尊重され、以前よりも存在そのものが大切にされる子が増えたのは大変すばらしいですが、一方、何にでも事細かに口を出して指示通りに動かすことや中高生への過干渉(高じれば支配)も、深刻な問題です。
大人が何のために子どもに寄り添ってそこにいるのか、自らの存在意義を場面ごとに意識して、バランスを取っていたいものです。
ところで、子ども会で政治的な主張はいかがなものかといった意見が寄せられることがありますが、子ども集団の利益を検討する際に民主的になろうとすれば、私たちは政治思想から逃れることはできません。それは、残念ながら行政による法律の無視や軽視がまま横行するからであり、リーダーたちが子ども会の中だけで生活している訳でもないためです。例えば、ブラック校則を無くすためには人権思想や法規の知識が必要です。コロナ下で子ども会を開催し続けることができたのも、何より子どもの遊ぶ権利を保障する重要性を認識してきたからに他なりません。
折しも、伝統的に人権教育を遠ざけてきた文科省などからせっかく離れた「こども庁」を作ろうとしたところに、「子どもに人権を教えたらロクなことがない」と叫ぶ人々の横槍によって突如「こども家庭庁」が発足してしまうという、子どもを権利主体として守る本来の目的を台無しにしかねない事態に陥っています。
当会がめざすことの末尾では、民主的な社会を支え守る人づくりを標榜しています。中身のある仲間体験によって、弱者や平等への眼差しを培い、良い社会を創る人を生むために、社会的・政治的な視点は不可欠なのです。
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これまで、現場で感じたことの言語化によって事象を見通すことができ、また本稿の執筆がより進んだ子ども会創りにつながってきました。後は働き盛りのスタッフに託して、100回を機に筆をおくことにします。
これまで長年にわたり、アンケートや個別のお便りで、また親子会などでお目にかかった際にいただいたお言葉の数々は大きな支えになり、感謝に堪えません。
ご愛読くださいまして、誠にありがとうございました。
綾崎幸生(あやざきゆきお)=会顧問
[会報『くさぶえ』 22年3月号掲載 / 紙面版に若干の加筆あり]