生活を脅かすパンデミックに際し、しばらくコロナの話題でもちきりなのは当然ですが、他方、環境悪化・気候変動や格差拡大問題への危機感からか、SDGs(Sustainable Development Goals=持続可能な開発目標)という言葉がようやく日本でも広く認識されるようになった、この一年半でもありました。

 ご存知の方も多いでしょうが、2015年に国連サミットで採択されたSDGsは、国連加盟の193か国が2030年までの15年間で達成するために掲げた課題です。17項の分野別目標とそれらに対して169の具体的な達成基準が設けられ、その根幹理念に「誰一人取り残さない(Leave No One Behind)」ことを謳っています。
 これはまさしく当会が「めざすこと」として掲げてきた「一人の例外もなく支え、守り合う関係」に重なるものです。私はSDGsの理念を知った時、手前味噌で恐縮ですが、正直言って「世界がアルプスに追いついてきたのだ!」と、心の中で快哉を叫びました。
 では、なぜその「一人の例外もなく支え守り合う関係」が導き出されたのでしょうか。
 全員のための目標達成をめざすには、最も弱い立場の人に光を当てる必要があります。しかし、そうは言ってもこれまでの習慣や全体の利益、既得権益などのしがらみから、「みんな」が支え合うだけでは、少数の誰かを置き去りにしてしまいがちなのです。例外を許容する理由やそれを正当化するための甘い蜜はいくらでも出て来るので、ともすればすぐに「大体みんな」「概ね全員」になってしまいます。現に、性的マイノリティーや外国人技能実習生が虐げられている問題への人々の関心は、残念ながらなかなか高まりません。
 キャンプ活動で言えば聞き分けの無い乱暴者、意見を言えない子、理解力の低い人など、簡単に取り残されてしまう。だからこそ、目標としてはどうしても「一人の例外もなく」が不可欠だという所へたどり着くまでに、子ども会を始めてから実に四半世紀を要しました。
 そして、「例外なく」に着目してすぐに心得たのは、一見強者と思われる人にも往々にして、否、誰にでも支えるべき弱点があることです。能力があるゆえ、他人を頼るのが下手で育児を託せない、仕事を任せられずに抱え込んでしまう。貧乏経験が無いので困窮生活者の立場になれなかったり他人の気持ちを推し量れなかったり。しっかり者で通ってきたため、弱音を吐けないということもあるでしょう。
 さて、SDGsの価値は、発展途上国への経済・技術援助や、先進国の環境負荷が低い生活への転換だけでなく、民主国家から忌み嫌われる専制国家であっても例外とせず、その国民に目を向けられる点にもあります。より良い世界を築くためのSDGsが「誰一人取り残さない」に至ったのも、必然だと考えられる訳です。
 なお、国内的SDGsについては、立ち後れているジェンダー不平等問題の他に、若者の精神的健康や自立を重視すべきだと思います。物質的には何不自由なく育てたと言われながら親や学校からの縛りが強く、親への感謝強要、入学前の宿題、進学・就職・結婚への干渉、スマホ代の永年親口座引落しなどなど、いつまでも子ども扱いされる「不自由」の広がりを、大変憂慮しています。

綾崎幸生(あやざきゆきお)=会顧問
[会報『くさぶえ』 21年7月号掲載]