今年度から評価を伴う教科に格上げされた「道徳」を小欄で取り上げて5か月、その問題は日大アメフト部の逸脱行為で具体的な姿を現してしまいました。手許には、40年前に教育学部でもなかった大学1年の私がなぜか興味を持って買った「『道徳』授業批判」という本(宇佐美寛著)があり、その中に、何と現在でも教科書に載っている「星野君の二るい打」が収録されています。

 かつて教わった方も少なからずいるでしょうし、いろいろな論評でも取り上げられたため詳細は省きますが、「星野君が監督のバント指示を無視し強打して勝利に貢献したが叱責され、彼の力で出場権を得た大会に主戦投手でありながら謹慎・欠場を命じられる」という内容です。さらに、「監督には絶対服従するという『規則』」を全員に思い出させ、星野君は涙ながらに「異存ありません」と言います。一般社会ならパワハラの極致ですが、こんな物語が小学校の実際の教材であり続けているのです。
 本来、これを扱うならば、規則とはどうあるべきものか、絶対服従が何を意味するのか、処罰はどうあるべきかなどを児童が論じ合ってこそ、教材としての価値が与えられるものでしょう。しかし、現実に「そこにあるきまりは無批判に守るものだ」ということを教え込み、結果として「指導者には従え」と諭すための題材として利用されていることは、指導書が示す「正答」やネット上に転がる数々の指導案の「ねらい」を読めば明らかです。
 そうです、教科化されるずっと以前から、道徳の「成果」は実を結んでいたのでした。私は毎年若い生徒や学生たちに「心のノート」の使われ方を尋ねていますが。政権交代による同書の廃止と復活を経た後に、授業中に用いたという人の割合は増える一途で、その「果実」が大きくなるのを心配しています。
 なぜなら、教師にとっては生徒に規則を厳守させたり指導者に盲従させるたりすることは、楽ちんで心地良いものだからです。「心のノート」は怖いけれど便利なツールだと感じている教員は少なくないと予想がつくからです。そして、教科道徳的価値観は往々にして美談に感動することを求め、結果がどうであろうと中身を問わずに一所懸命やる姿勢を尊び、前段の縛りと補強し合います。また、親にとっても子どもが自分の頭で考えてつべこべ言われては、意志を通しにくくて面倒です。時に長いものには巻かれろと言いたくもなり、一部には学校に従順訓練を求める傾向すらあります。
 しかし、それを教育と呼べるでしょうか。
 理不尽なパワハラや検査結果改竄等の不正が止まないことに、これまでの道徳=「心の支配」に一因を見るべきでしょう。石巻市立大川小の惨劇の中でも、数名が自分の考えで裏山(をほんのわずか登った所にある平地)に逃げて生き延びたことを思い起こしましょう。
 ここはアメフト問題をきっかけに、日大の体質や監督・コーチの責任を問うに止めず、自らの子育てを振り返る機会と捉えたいもの。問答無用的に「当たり前のこと」として擦り込まれる道徳概念を、本当にそうだろうかと家族で話し合って吟味することが大切であり、担任が我が子に下した「道徳」の評価内容は敢えてスルーすることをお勧めします。

あやざきゆきお=会前代表[機関紙『くさぶえ』 18年7月号掲載]