前回当欄「二分の一成人式」の話には、メール、SNSコメント、秋の親子会でいただいた言葉など、かつてないほど多くの反響がありました。感じたのは、その類の行事に疑問を持っている人が少なくないものの、それを変えるまでにはなかなか至らない実態です。
そのような中、来春から小学校で『特別の教科 道徳』が、それなりの公費を投じて実施されようとしています。
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岩手県では歩行者が信号機の無い横断歩道で止まる車に対してだけでなく、横断歩道を青信号で渡った際に赤で待つ車に対してもお礼の会釈をするという姿が、SNSに流れていました(県内を車で走ったことがありますが、気づきませんでしたので、一部地域のことか、喧伝フェイクかも知れません)。それが美徳として、非常に好意的に伝えられているのですが、はたして、それで良いとは思えません。
赤信号で止まるのも、歩行者のいる横断歩道手前で止まるのも運転者の義務、ルールです。それをありがたがっていたら車優先社会を助長させるだけとも考えられますし、ましてや理不尽な交通事故に巻き込まれて大変な思いをした人にとっては受け入れ難い行為でしょう。
あるいは、横断歩道通過の法規が無視され、車は止まらないのが普通になっている都会では、当然車が停止するものと身に染みついている国から来た人々が、「親切な国」であるはずの日本で非常に危険な目に遭っていると、東京五輪を前に警鐘を鳴らしている外国人もいます。彼らにとっては本末転倒、止まらない車にこそ謝って欲しいのではないでしょうか。
さて、観点別評価の実施で「意欲・関心」が測られるようになって以来、空気を読むことに細心の注意を払い、少数派でいることを恐れ、自分からは決して異見を述べない、そうした若者が量産されてきたと、私は実感しています。それは先の衆院選世論調査における20・30歳代の与党支持率の突出ぶりにも見て取れます。古今東西を問わず若年層は体制に批判的なものだったはずですが……。
もしも、教科道徳の時間に岩手の例を取り上げれば、無邪気なSNS同様、挨拶する姿に賛同が集まる恐れが高く、下手をすればそれだけで終わってしまいます。従来の「道徳」の反省から、もっと子どもたちに考えさせる工夫をするようなので、多様な意見が出ることを期待したいのに、同時に加わる「担任による評価」は少数意見表明を容易に阻むでしょう。
これでは、長い物には巻かれよと正解探しをさせたり、建て前と本音を使い分けたりする風潮がますます強まることは、火を見るよりも明らかです。そうした行動が不道徳に映る児童にとって、教科道徳は苦悩の時間にもなります。
そもそも、決して自分の頭で考えさせようとしない「心のノート」を活用しつつ、検定済教科書しか使わせないということは、責任ある大人が作った検定不合格教科書の見識を信用しない訳で、「多様な価値観を認識させる」という旨とは、すでに自己矛盾しているのです。
大手自動車メーカーや製鋼会社で起きた不正は、ある程度システムで抑止できても、教科道徳で教えようとしている「態度」は、根本的な不正防止教育の真逆を向いているように見えてなりません。
綾崎幸生(あやざきゆきお)=会代表
[会報『くさぶえ』 17年12月号掲載]