スキーを教えていると慎重派と積極派の二つのタイプの人がいることを実感します。それは他のスポーツについても想像できますし、ヒトに限らずイヌなどでも顕著です。私の飼い犬は臆病な性格で、決して危うそうな物に近づいたり無茶をしたりしませんが、近所の同齢同種の犬はその真逆。そうして、生き物は危険を冒して食べ物を得つつ、安全を確保してきた種が残っていると考えられています。コロナ下においても人々の行動はさまざまですね。
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COVID-19の情報を精力的に集めていた3月、情報TV番組で、ある著名な感染症学者が「家庭でも80℃以上の熱湯で洗濯をしなければならない」と言明しました。耳を疑います。恐らく何か勘違いをしたのか、全ウイルスを殲滅させる使命を感じたかしたのでしょう。
そんな洗濯は多くの人はできるはずがないし、その必要もありませんが(従来、感染症に対しては普通に洗って乾かせばOKです)、そこそこの視聴率がありながら、他の出演者は専門家を前に何の指摘も訂正もできずで、これはこれからコロナ対策情報が錯綜して大変なことになると、私は懸念を深めました。
対策と呼ぶ価値のない無益な行為を排して、実効性が高くて持続できる施策をどうやって進めるべきか。
その正解を得るためには、当初から言われている通り感染は人から人へ起き、クラスターは三密の「重なり」で生じる事実をきちんと理解し、総てはリスクや害と益のバランスで判断する以外になく、その面倒な作業の原動力は、過剰な対策により損なわれるものたちから目を背けずに、痛感することだと考えています。
新型コロナウイルスは長く残るとされるプラスチックの表面でさえ、ほんの1時間で10分の1程度に減るという研究があり、つまり2時間で100分の1、3時間経てば1000分の1になる計算です。無論、放射線のように単純ではありませんが、多量のウイルスは残らないことと、一度に相当数のウイルスが体内に入らない限り感染しないことも判っています。
それなのに、今でも毎日教室や店舗の消毒が行われていると聞きます。歌も器楽演奏も工夫次第でできるのに名曲鑑賞を続ける音楽授業が行われ、協力の大切さを教えるはずの小学校で、友だちが落とし物をしても拾うな、それが新しい配慮だという指導がなされる始末です。自粛「要請」に応じぬ店の名を公表して誹謗中傷を煽ったうえ異論を容れない自治体が、子どもたちにイジメは良くないと言って説得力を持ちようがありません。
今日も公園には「2メートル以上間隔を空けて遊びましょう」という横断幕が掲げられていましたが、屋外では無意味な表示なので、幸い誰も守っていませんでした。
そもそも、子ども同士は密着して育ち合うものなのに、そこから密着を奪ったら、2~3年の我慢では済まされない話です。逆上がりができない子がいて、できる子らが押したり引いたり、あーだこーだ、ワイワイやってできた時の両者の喜びの深さを忘れてはいけません。直接の触れ合いから体得する手加減、近いからこそ感じられる表情や語調の変化から相手の気持ちを察する力、危険を回避する術など、子ども集団の営みには、コロナ対策の優先によって阻まれてはいけない、非常に重い価値がある訳です。
※会報(紙媒体)掲載文を一部訂正しました。
綾崎幸生(あやざきゆきお)=会顧問
[会報『くさぶえ』 20年10月号掲載]