あしたのむこうがわ <81>
経験の無さからくる非寛容性とその見極め
綾崎幸生

 先日、「公共の場で授乳、どうすれば…投稿から議論」という記事を朝日新聞で目にしました。どうすればも何も、上半身を覆い隠せるケープや授乳しやすい下着も服もいくらでもあるのだから、いくらでも気軽に与えれば良いだろうと思いきや、投稿主である女性の大学院生は「ケープなどで隠しながら授乳する人が多いが、それでも目のやり場に困る」と投稿していたので面食らいました。
 それでは、プールで水着の人々を見たら目のやり場に困りますし、電車で座った目の前に男性が立っていたら股間が気になって、二度と座ることはできないでしょう。
 記事では大仰に「日本、江戸期は隠さず」と紹介していますが、そんなに遡るまでもなく私の子ども時代は往来で普通に授乳が行われていました。学生だった'80年頃になっても東京の電車内や劇場で乳を含ませる母親を見かけましたし、むしろグッズが充実した近年の方が、公共の場で授乳が広く行われているのではないでしょうか。物が売れている訳ですから。
 他方、SNSではこの話題について、議論を起こすために投稿を播き餌にした「釣り記事」ではないかといった疑念が呈されました。
 それでも、前述の通り大学院生の疑問を一般化するにはそもそも無理がある訳で、投稿者のみならず、これを取り上げた女性記者も一体どんな育ちをしてきたのかと、心配になります。大学院生や全国紙の記者というエリート的立場の人が浮世離れしていたらミスリードを避けられません。記事にするならば、人生経験の無さが生んでいる寛容性の欠如をこそテーマにすべきではなかったでしょうか。ボール遊び禁止、走り回るの禁止と、禁止ずくめの公園や、障害者施設建設の困難、保育園の騒音問題などに絡めて捉えると、多様な人の生き方に思いを馳せることができるか否か、どういった姿勢でそれらに臨むのかを問われる題材です。
 もう一つ、千葉市長のSNS発言が発端だったのか、男性保育士による女児おむつ替え等の是非についてのやりとりを読みました。
 児童福祉法施行令の改定で“保父”が認められた後、33年前から男性保育士を採用してきた自治体に住み、十年近く保育園に娘を預けて、イクメン発生のずっと前から赤ん坊の世話をしていた身からすると、原則同性保育を求める声は乳児というものや大人の役割への理解不足から起こる、無意味な議論だと思います。
 かつて私の娘などは、親愛の情を込めてなのかどうか、小用後にトイレから「Kさん、ふいてー!」と叫んで、来訪中の友人男性に始末を頼んでいたのを思い出しました。
 さて、どちらの例も、話題の広がりの割には困っている人は極めて少数であろうと想像されます。少数意見を知り、その声に耳を傾け、気持ちを寄せることは確かに大切です。
 その上で、個人の発信・拡散力が非常に大きくなり、ごく少数の意見も結びつきやすくなった状況を念頭に、流される情報が実態よりも大きく感じてしまう恐れを常に自覚したいものです。また、事情に明るい人が諦めずに書くべきことを書いたり、賞賛やクレームが多少あっただけではイベントを評価しないことが肝要だろうとも考えます。
あやざきゆきお=会代表
[機関紙『くさぶえ』 17年3月号掲載]
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