あしたのむこうがわ <74>
同質性を求める傾向に抗うことの大切さ
綾崎幸生

 先日、愛知県で面積が最も大きい豊田市が主催する「いなかとまちのくるま座ミーティング」に、話題提供者として招かれて貴重な話を伺う機会をいただきました。
 平成の大合併で市街地から山間部まで車で1時間半もかかる市域になったそうで、多くの、実にさまざまな人びとがすばらしい町・村おこしに取り組まれており、その熱心な姿に驚かされました。
 各季節の子ども会の募集期間になると、決まって「○○コースには○年生が何人位参加するか」「○組に女児はどの程度いるか」といった類の問合せを受けるようになりました。
 かねて料理コースの男児や「つり道場」の女児の割合を気にするきらいはありましたが、近年は、誰でも参加しそうな一般的なコースに対してさえ、我が子と同じ属性の参加者がたくさんいるかどうか、懸念を抱く人が間違いなく増えているのです。仮に子どもがそうした不安を口にしたところで、大人が「いろんな人がいるからこそ面白いんだ」と伝えれば済むことなので、恐らく親自身が心配なのでしょう。
 子どもが何をしたいのか、自分の子に何をさせたいかの意志は二の次で、他人の動向が優先されてしまう困った心理ですが、そもそも、普段学校で厭と言うほど同質社会に浸かっている中、校外で異質のものに接することができる絶好のチャンスが当会のような野外活動です。
 いろいろな子と一緒に生活すると、大きくてもできないことや小さくてもできることがあったり、強そうでも苦手なことがあり弱そうでも得意なことがあったり、知らずと異質性の心地よさを獲得していきます。それらの体験は自らの弱さをさらけ出して助けを求める力や、あるいは誰かの弱点に気づいて補い支えようとする力につながります。
 そして、それら薄い膜のような経験一枚一枚の積み重ねが、共感や共鳴を生み、他者に思いを馳せるようになっていくのでしょう。
逆に、自分と異質なものに向き合わなければ、当然不都合な事態に対処できるようになりませんし、本来の自己肯定観が育まれるはずがありません。若者が「あり得ない」「信じられない」と簡単に言ってしまうのも、ずっと同い年の同性ばかりで過ごしているからです。
 また、元来生き物は環境の変化に対応し多様化することで生きながらえました。特に昆虫は、食物にする生物種を細分化して次世代を残します。同じ蝶類でもモンシロはキャベツ、アゲハは柑橘など、中には厳冬の山中で生き抜くフユシャクガといった変わり種もいます。
 人間も社会環境の変化に対応するために、妙なことをする人、異なる視点は欠かせません。災害に即した行動にも、同様でしょう。
 20年近く前に文部省大学審議会は、日本の大学院を「学生・教員の同質性が高すぎて、学問的刺激が弱い」として、異質なものとの交流の中から新しい発見やヒントを生む重要性について述べています。小学校などでは学年縦割り行事を採り入れ、異業種交流や学際研究などもかなり前から広く行われています。
 一方で、同調圧力を過剰に受け止める傾向はどんどん強まり、「みんなが行くなら行く、みんながやらないならやらない」現象が進んでいるように見えます。「♪ありのままで」や「個性の尊重」は叶わぬ理想でなく、各自の内面に重ねたいものです。
あやざきゆきお=会代表
[機関紙『くさぶえ』 15年3月号掲載]
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