あしたのむこうがわ <69>
数字のもつ本質的な意味を考える
綾崎幸生

 長年、当会の関東地区集散に使用してきた場所の目の前にある国立競技場こそが、'64年東京オリンピックのメイン会場でした。当時、ほど近い渋谷区内に住んでいた私は、大空に飛行機雲で描かれた大きな五色の輪を子ども心に驚きをもって見上げた時のことを、甲州街道で応援したマラソン選手の姿と共に鮮明に覚えています。
 それにしても、まだケーキを食べてない人がいるというのに、二つ目のケーキを何の遠慮もなく食べてしまうようなオリンピック招致とは、さらに決定後は勝てば官軍とばかり続いた大政翼賛的報道は、一体何なのでしょうか。元来、控えめで奥ゆかしい「日本」の心や伝統を取り戻そうなどと言ってきた人がこれでは、困ったものです。都合の良い時だけ普通の国になりたがるのが日本人というのなら、よく解るのですが。
 そもそも、世界に目を向ければ、文化の違いを知れば知るほど、同時に人の生活の普遍性を実感するものだと思います。
 興味のない方には恐縮ですが、野球ではヤクルトスワローズのバレンティンがシーズン本塁打記録を更新して注目を集めています。かつて阪神のバースが王貞治の記録にあと一本と迫る54号を打った後、四球攻めに遭い、また、首位打者を狙う選手が打率維持のために試合を欠場するのを許す風潮を機に、私はプロ野球ファンを辞めたのでした。そんな私にも、今季の彼の快挙には若干の感慨がありますが、近年、それらの記録の解釈や扱いに、大きな問題を感じています。
 ほんの一例は楽天・田中将大の「連勝記録」で、スポーツ・芸能紙や夕刊紙ならいざ知らず、キー局までが「世界新記録」とはやし立てていることです。通の方なら先刻ご承知の通り、レベルの全く異なるリーグを比較したり通算したりするのは、甲子園での記録や六大学リーグの記録とそうするのと同じくらい意味が無く、言わばメートルとヤードをそのまま足しているようなもの。さして関心が深くない今時の一般人にとっては、本当の世界記録と信じて疑いようがありません。センセーショナリズムにも程があるはずです。
 その点、西武の石井一久が引退表明会見で「日米通算」200勝を前に辞めることを問われ、その数字に「全く興味が無い」と言い切ったのが、正しい姿でしょう。
 従来、野球好きの少年ならば防御率の計算式を大抵知っていましたが、それは即ち、その数字のもつ意味の理解でした。ところが、例えばボウリングの点数をコンピュータが計算してくれれば得点のルールが知られなくなり、ターキーの価値も解らなくなります。
 人びとがいろいろな数字のもつ本質的な意味にあまりこだわらなくなってきた背景には、他にもICカードの普及により電車の運賃を計算して切符を買う機会が激減したことなど、多くの少しずつの理由があると思われます。
 新聞記事には、記者の意図に沿うようにY軸を切ったり始点ゼロを避けたりして、値の変化を大袈裟に見せようとするグラフが横行しています。それらをしっかりと見極めて、述べられている内容が本当にその通りかどうか、常に真実に迫りたいものです。
あやざきゆきお=会代表
[機関紙『くさぶえ』 13年10月号掲載]
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