あしたのむこうがわ <67>
暴力教員解雇は親の体罰へのレッドカード
綾崎幸生

 いじめ、学校体罰に続き国家代表選手への暴力と、力や立場の強い者が弱い者を精神的・肉体的に痛めつける事件が問題化し、しかも大多数の人はそれらを「身に覚えのある日常的な風景」の一部として捉えています。これまでもそうでしたが、暴力を受けた者が殺されただけでは単なるニュースに終わり、被害者が自殺すると社会問題になります。
 しかし、そこから先にあるはずの「親から子への『愛のムチ』という名の暴力問題」に展開できないために、結局、またまた、またしても、の体罰問題になってしまうと私は考えます。そもそも、なぜ日本の警察が学校内での教員暴力に対してこれほどまでに甘いか(一般社会で検挙される暴行の程度の軽さを見れば一目瞭然です)と言えば、それを支持する大衆があるからこそです。
 中高生リーダーを対象に毎年春休みに開いている研修合宿「春の学校」で、私は受講者へ体罰について尋ねています。この20年ほどの間に若干減る傾向はあるものの、教師から暴力を受けたことがある生徒は概ね2割、それを間近で見たことがある生徒や、親からぶたれたことがある生徒は依然として5割を超えています。友人が一方的に殴られるのを見せられるのは、時として直接自分が受ける以上の痛手があり、年齢的にか数々の教員暴力や親からの体罰に晒されてきた私にも、今でも許し難く忘れ得ない級友への暴力シーンが、中学・高校時代のそれぞれに浮かびますし、何度か父が母を殴った記憶が心に刻まれています。
 「確かに法律で禁止されている暴力を教師がふるうのはいけないが、そうは言っても家で親が我が子を厳しく指導すべき局面で、節度ある体罰は認められるべきではないか」という意見が、私の聞き取りからも根強くあると理解できます。小欄の読者にも同様見地が少なからずあるでしょう。
 その通り、親の真剣さを伝えるために、毅然とした態度が必要であり、殴られたこともなく育った奴には忍耐も根性も備わらないだろう、と。何を隠そうこの私も、二十歳くらいまではそう信じて疑っていませんでした。
 しかし、子を持てば、そして父親を長く続けるほどに、毅然とした態度は体罰無しに示せることや、力づくで備えつけられた耐性にさしたる価値が無く、人災が起きた場合などかえってそれが生きて行くうえであだにすらなることを知りました。
 いやいや、子ども自身が後で親の愛を実感して謝意すら抱くではないかという意見に対しては、ひどい虐待を受けている子も同じように言う事実を確認しておきましょう。誰だって人は自分の育ちを否定したくありません。実際、殴らない人はごまんといるのに、自らの親に問題があるとは思わずに「自分が悪いから、殴られても仕方ない」と納得しようとします。それを親が都合良く解釈しているだけのことでしょう。殴る人が体罰を是認する本当の理由は、自身の育ちや父母を否定したくない所にあるのではないでしょうか。
 氷山の一角である一教師の懲戒免職を、間接的に暴力を支えてきた親へのレッドカードとして大勢に受け止めてもらうことで、子どもへの暴力を減らしましょう。
あやざきゆきお=会代表
[機関紙『くさぶえ』 13年3月号掲載]
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