あしたのむこうがわ <64>
社会の成熟度が問われる真の平等性
綾崎幸生

 都会の電車では、車いすで移動する人のためにホームと車輌の間に駅員が板を渡す光景は、もはや日常茶飯事となりました。そのことで多少遅れが生じたとしても、大半の人は不満を感じないようですし、そうしたことを「社会の成熟」の一つと捉えられます。
 今後、大都市近郊では高齢者が間違いなく爆発的に増えると予想される中、さっさと乗り降りできる人の割合が小さくなって、今のダイヤのままでは定時運行を保てなくなることが容易に想像されます。そうすると(省エネの観点からも乗り心地の点からも実行されないでしょうが)駅間の発進と停止を急激にしない限り、所要時間を長くとる必要が生じて、より「不便」になる訳ですが、それを甘受するのもまた社会の成熟、大人の姿勢ではないでしょうか。
 この夏も大勢の、実にさまざまな子どもたちが駒ヶ根にやって来ます。大きい子、痩せている子、強い子、小食の子、何でも出来そうな子、年齢の割に幼稚な子、色白の子、目つきの悪い子、思いやりのある子。皆ひっくるめて参加者です。彼らは時として場を明るくする「にぎやかな子」でありながら「やかましい子」だったり、集団ゲームを盛り上げる「元気な子」でも実は「意地悪な子」だったりもします。
 その中には、通常備えている機能が未熟だったり欠けていたり、特定のことがらが際だって不得手だったりするために障害児と言われる子どもたちも当然います。彼らに必要な支援は障害の種類や程度によりさまざまですが、それらは誰もが持っている苦手なことやできないことと全く別のものではなく、少なくともキャンプ生活を営む際は連続的な同じ帯上にあるものと受け取ることが可能です。
 無論、みんなが安全に楽しく過ごせるように、障害児とその周囲の子にはより一層の支援や配慮が必要であり、会のリーダーには多少の知識や技術が求められます。しかし、どのリーダーにもそれだけの力量がある訳ではないため、要重支援児の参加はひと夏に計150名前後にとどめざるを得ません。全体の募集枠が空いているのに、「健常児」と等しく参加意義のある社会的弱者が参加できない現状については、誠に申し訳なく、忸怩たる思いです。
 需給バランスが崩れている大きな要因としては、要支援児を受け入れる団体の少なさがあります。障害児と大人だけ、もしくは障害児と同数位の健常児が一方的に支援する側の立場で参加する「療育キャンプ」と呼ばれるような企画は多くあり、それはそれで価値があると思いますが、一般の野外教育団体には、もう少し知恵と勇気を出して欲しいのです。
 専門知識がなければ受け入れられないというのであれば、ダウン症や自閉症の人々は一体これからどうやって社会の中で生活して行けば良いのでしょうか。彼らが可哀想だから受け入れるのでも何でもありません。彼らは社会的存在であり、キャンプの中で数多く繰り広げられるドラマの一部を他の人と同じように織りなすだけのことです。
 高齢者ドライバーが増え、さして交通量が多くない場所ですぐに渋滞になる近況に、ついついイライラしてしまう私は、じきに彼らの仲間入りをする単なる未熟者に過ぎません。
あやざきゆきお=会代表
[機関紙『くさぶえ』 12年7月号掲載]
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