あしたのむこうがわ <56>
もっともっと子どもの視点で子育てを
綾崎幸生

 先月、北海道・ニセコに行きました。ここは、他のいくつかの日本海側地帯と同様、居住可能地域としては世界で稀に見る豪雪地で、普通はヘリコプターを使わなければ味わえない腰まで浸かるような深雪スキーを堪能することができます。それが知られるようになって世界中からスキーヤーが訪れ、今ではこの季節の客の三分の二は外国からの来訪者です。
 その日も当然のようにしんしんと雪が降る中、山の麓の緩斜面では、4〜5歳と見られる男の子に父親と思しき男性が「もっとうしろをひらいて!」と、スキーを教えていました。俗に「ハの字」というボーゲンを教えたかったのでしょう。
 しかし、その男性が履いていたのはスキーではなく、ボードでした。自らスキー後部を三角形に開いて立つ姿勢を示して、その後ろをつかせれば良いものを、自分がスノーボードをやりたいという欲求を抑えられない=自分かわいさのために、大変な遠回りをしてしまったようです。初めてこうした光景を見た時は驚きましたが、最近はこうした親子の姿をたまに見かけます。
 「そもそも愛情とは、相手のために自分の希望や欲求を制限できることである」と説いた精神医学者や、それを自己犠牲の形で体現しているアンパンマンの献身からすると、対極の「自分が大切」ぶりです。
 子どもを二の次にしてスノボや電子ゲームに興じてばかりいる父親は大きな過ちを犯しているように見えますし、ファミリーレストランで空席待ち中に、幼子と何の会話をするでもなくひたすら携帯メールを打ち続ける母親に対して眉をひそめることはたやすいでしょう。
 しかし、子どもの視点に立てば、親が遊んでいようが仕事をしていようが、向き合ってもらえないことに変わりはありません。
 先日、NHKのニュース番組で、具合の悪くなった乳幼児を一時的に預かる「病児保育所」への補助金給付制度問題を取り上げていました。無論、大勢の中にはいろいろな事情で仕事を休めない親がいるので、こうした施設を無くせとは言いません。
 それでも、病気の時にいきなり知らない場所に連れて行かれて初対面の人に一日面倒見てもらう子どものこと考えれば、単純に施設を整備すれば良い訳ではないでしょう。病児保育所を整えれば整えただけ、我が子が熱を出した時に仕事を代わる体制を取ったり、あるいはその日に備えて近所に預けられる友だちを作ったり、そもそも休もうとしたりする、そのような努力を怠りがちになるのは自明です。
 レポーターにはそうした観点を持って欲しいのですが、前々回に書いた罹患児を預かる医院の時と同様、残念ながら皆無でした。
 よく2〜4歳ごろのかわいさを貯金にするから、その後憎まれ口を叩くようになっても子育てを続けられるなどと言われますが、「親がやりたいことを我慢しなければならないのは当然」が崩れたために、愛に飢えるから余計に愛を求め、悪循環に陥る場合が少なくないように見えます。新聞を読みながら食事をするオヤジに語られたくないと 私の家族がこれを読んだら必ず言うでしょうが、自分のことを棚に上げ、いえ、自戒を込めつつ。
あやざきゆきお=会代表
[機関紙『くさぶえ』 10年3月号掲載]
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