あしたのむこうがわ <54>
頼らず頼られず、
泣かなくなった子どもたち
綾崎幸生

 昨年の初夏、「子どもと関わる仕事をしている人」を対象とした子育て支援を考えるシンポジウムが東京都内のある区で開かれ、出席の機会を与えられました。冒頭、「子どもは変わったか」というトピックが掲げられたのですが、パネリストの多くは一様に「基本的に子どもたちは変わっていない」と発言したのでした。
 30年間に小中学生の姿が大きく変わったと実感している私は驚き、異論を唱えました。恐らく、我が子の成長に親が気づきにくいのと同様に、日々子どもたちと向き合っている人には見えづらいのでしょうが、大人たちの言動や生活がこれだけ変化しているのですから、子どもが影響を受けないはずはないのです。
 かつて、子ども会でも小さい子はしょっちゅう泣いていました。玄関で自分の靴が届かないと言っては泣き、持ち物が見つからないと言っては泣き、「泣き虫」とからかわれてまた泣く。泣くことは単に助けて欲しい、手伝って欲しいというSOS発信だった訳ですが、そうして気軽に周囲の力を当てにしていたのです。
 今、夜お母さんが恋しくて泣く子、あるいは友との別れが悲しくて泣く子、また、稀に勝負に敗れて悔し泣きをする子はいますが、誰かの手助けを求めるための信号として泣く子はめっきり減りました。中高生も同様です。良く言えば、自分のことは自分で解決しようとする「しっかりした子」が多くなったのでしょう。
 しかし、それが即ち良い状況と思えないのは、助けてもらうことと助けることは、表裏の関係にあるからです。気安く支えてもらう経験が支える力を生みますし逆も然りです。一例として、食事の際に手の届かないドレッシングを隣の子に「取って」と言えずに、席を立って歩いて取りに行く子は今時ざらにいます。そこで、そうした行為を見逃さずに「取って欲しいときには遠慮無く言おう」と伝えることが「一人の例外もなく支え、守り合う」ための第一歩です。
 そもそも、ご承知の通り他人の役に立てることは「人の間」と書く人間の本望。仲間に物を取って喜んでもらえることは面倒や迷惑では決してありません。子どもが回転寿司を好む理由の一つには、醤油皿を配ったりお茶を入れたりといった役割があることも挙げられます。
 他方、隣人に醤油を借りるよりもコンビニに走った方が気楽だと皆が思っているうちに、いつの間にやら宅配荷物を預かることすらしなくなってしまいました。そうして、ささいなことでも迷惑と感じたり感じられたり、迷惑と感じられたらいやだと予防線を張ったり、人々は何とも息苦しい生きづらさを蔓延させ合ってしまっているのではないでしょうか。
 この秋口、新型インフルエンザがはやり始めた頃、ある医院が働く親のために、罹患した子どもを昼の間預かるサービスを始めたというニュースがありましたが、これなど、象徴的です。無論、人それぞれさまざまな事情があるにせよ、子どもが熱を出した時くらい同僚が支え合い休みを取れる職場や仕組みであることが成熟した社会のはずなのに、記者は何の批判的視点もなく、良いものとして報じました。
 他人を当てにしたり自分を当てにしてもらったりする体験を多くの人が重ねることは、より豊かな社会を築いていくうえで、極めて大切かつ近道だと考えます。
あやざきゆきお=会代表
[機関紙『くさぶえ』 09年12月号掲載]
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