あしたのむこうがわ <52>
子ども本位の視点を取り戻そう
綾崎幸生

 明治初期に来日し大森貝塚を発見したことで有名なモースは、大人達から可愛がられ素直に育つ日本の子どもたちを見て大変驚き、「世界の中でこれほど子どもが愛されている国は見たことがない」と書き残しているそうです。他にも多く渡来した欧米人が何人も、19世紀にあって強制労働も暴力もないこの国の子どもたちの様子を記録したと伝えられています。
 それが、わずか百余年を経ただけで、ここまで変わってしまいました。子どもが占める人口比率が下がるのと軌を一にして、私には社会における子どもの存在価値がますます低下しているように見えます。
 確かに、世界的に見れば飢餓や貧困は極めて少ない国かも知れません。溢れる玩具や菓子に囲まれている子が多いでしょう。しかし、それらは決して子どもの幸せにつながっているとも大人たちに大切にされている証とも言えません。
 「こどもたちの、こどもたちによる、こどもたちのための国」という謳い文句の、プレイパークとも言い難い「キッザニア」という娯楽施設が東京にあり、来春には兵庫・甲子園にもオープンします。ご存じの方も多いと思いますが、ここは子どもたちが「実物そっくりのお仕事」を体験する場所で、働いて手にしたお金を「本物そっくりなお店」で消費することを売りにしています。無論、児童労働は禁止されていますので、これは遊び、いえ、「偽遊び」の部類です。
 元来、どんぐりや松ぼっくりを売り物に見立てて、紙幣のつもりで落ち葉で支払えるのが、子どもの心ではないでしょうか。ところが、ここにあるものは皆本物そっくりですから、品質は均一、汚れたり虫に食われたりした怪しいお札もありません。実在する組織そのままに作られたものに、発展性や意外性など本来遊びが包含する大きな魅力など持てる訳がないのです。
 子どもらしい心を小さい内から壊して、大人の都合のみで子どもを早く大人にしたがっている姿が、この施設の本質です。それなのに、マスコミを含む多くの大手企業が出資しているためか、これが何の批判的視点もなく報道され続けていること自体、異様です。
 同様事例では、「金融教育」なるものが挙げられます。高校の政治経済の授業ならばまだ解りますが、小学生の内から会社経営のシミュレーションなどをやらせることがどんな力に結びつくでしょう。本来ならば、新聞の折り込みや雑誌のカラー広告か何かから好きなものを切り抜いて、想像力をふくらませながら並べて自由にやれば良いごっこ遊びを、証券会社等の働きかけに乗せられた教師らが、金融商品に対しての敷居を低くするための手段にしているに過ぎません。
 子どもは遊びやそれにまつわる迷惑のかけ合いから育つはずですが、公園で遊んでいる子らの声を騒音と認定する裁判所やそれを受けて噴水を止める行政とは、修学旅行の荷物が迷惑だからと全員が宅配便で送ることを余儀なくされる生活とは、数値目標を掲げて点数競争ばかりを強いる学校とは、一体何物なのでしょうか。
 来年は国連子どもの権利宣言から丸50年、国際児童年から30年、そして子どもの権利条約の採択から20年(日本は批准から15年)にあたる年です。将来を築く子どもたちが再び大切にされ続けるために、子どもとはどんな存在なのかが、いろいろな場で再認識される年にして行かねばならないと思っています。
あやざきゆきお=会代表
[機関紙『くさぶえ』 08年11月号掲載]
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