あしたのむこうがわ <51>
30年を経て、改めて
すべての子が大切にされる子ども会を
綾崎幸生

 昨年、「夏の子ども会」が始まる日。東京の集合地に生い茂る木々の幹の太さに、思わず30年の長さを感じました。あの植え込みが、一本で軽く200人を日差しから守ってくれる樹木に育ったのと同時に、世の中は普遍性を残しつつも、人間関係の希薄化という点で大きく変化しました。
 特に今回の「30年記念の集い」では、この会に加わる人々の強い想いを、親子会とはまた違った形で直接伺うことができました。それらは、リーダーの夏期全体研修会で採択された基調提案である「すべての子が大切にされる子ども会をめざす」ことの重要性を改めて認識させてくれます。
 この「すべて」は名実共に「一人の例外もなく大切にされなければいけない」ということであり、単に「みんな仲良く」とか「一人ひとりを大切に」などといった表面的な題目とは本質的に異なります。
 新人リーダーへの応募者からは決まって「かわいい子どもたちと遊びたいから」「子どもがかわいいから」との志望動機が出されます。そこで、候補者を対象に実施する研修会で、私はいつも「かわいい子をかわいがるのは誰にでもできる簡単なことです。かわいくない子をどうやってかわいがれますか」と意地悪に問います。そこを考えて突破できない人はリーダーになれません。
 ちなみに、この癖で娘の卒園文集にて「かわいくない子どもたちのために」さらなる奮闘をお願いしてしまいました。だいぶ前の話ですが、保母(「保育士」は資格名で、好きになれません)
さんらにどう思われたでしょうか。
 さて、こうした考えに至った原点は24年前、中学生リーダーに応募してきたY君の存在です。彼は粗暴で、参加した小6の夏に周囲の手をかなり焼かせました。学校にも居場所のなさそうな子で、研修会での姿や提出物はリーダーの合格ラインに及びません。しかし、大学4年生のKさんが「ここで見捨てたら彼はこの先一体どうなってしまうのか」「私が面倒を見る」と強く主張したのでした。当時、女子の四年制大学進学率は10%程度だったと思いますので、二浪女性という彼女は珍しく、頼もしい存在でした。
 そして、「彼が応募してきた価値」に他のメンバーが納得して、リーダーとして受け入れました。彼は数年間参加した後、家業を継ぎ、結婚もして最近子どもが生まれたそうです。あの時、Kさんがいなければ、Y君は道を踏み外していたかもしれませんが、多くを学んだのは、何より私たちの方でした。
 例は異なりますが、折しも異宗教民族の住むアメリカでは、キリスト教だけを特別扱いすることになる「メリー・クリスマス」に代えて、近年「ハッピー・ホリデーズ」が用いられるようになってきていると聞きます。日本でも、政府見解や皇族談話などでは弔事の見舞いとして「冥福(=死後の幸福)を祈る」などを使わずに「哀悼の意を表す」を用います。
 少数者や弱者が大切にされることは、本来、多数者や強者にとっても、より居心地の良いことであるはずです。
あやざきゆきお=事務局長
[機関紙『くさぶえ』 05年1月号掲載]
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