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「正解探し」のビミョーな風潮は
まさに心の評価が生んでいるのではないか
綾崎幸生

 「秋の親子会」では今年も大変すてきな家族との出会いがありました。大阪のNさん一家の(この夏が初参加だったにも関わらぬ)3プラン制覇は、22年めにして初の快挙か暴挙か、ともあれ大いに盛り上がって終了しました。
 日常の生活では教育観や子育て観の近しい人が少なかったりなかなか見つけられなかったりして窮屈な思いをしがちであっても、ここでは何の利害関係もありませんし、話が弾むのは必然なのかも知れません。アルプス的価値観を持つ人々との触れ合いの心地よさを、いつもながら、いえ、年を追うごとに(単に歳を取っただけか)私は強く感じます。
 また、若いリーダーたちにとってもお母さん、お父さん方と接する場は非常に貴重です。 彼らの中にはそう遠くない自分の将来を重ねている者もいるでしょうし、知らずと一種の憧れを持つ者もいるはずです。思うに、身近に魅力ある大人、理想の家族がいる人は、自分もそうなりたいと無意識に願うのではないでしょうか。晩婚化や少子化を考えるうえでは私たちの生き様が問われることも大切なのでしょう。(などと、息子や娘がいつまでも結婚しないのは自らの家庭像のせいではないかと自責の念にさいなまれる方がいらっしゃいますが、親子関係となるとそうそう単純なものではないと思います。)
 さて、諸事情によりこの『くさぶえ』の発行がしばらくぶりになりましたことをお詫びしつつ、前号に引き続いて、人の心を壊すと思われる観点別評価について書きます。
 学校や家でどのように学習に取り組んでいるかを10項目にわたって答えさせる「やる気わくわくチェック」と題したプリント(テスト)が手許にあります。「ノートには、日付やページ数を書いています」「聞いている人の方を向いて話すことができます」等、いずれも学童としてあるべき姿、期待される児童像が並んでおり、答えと言ってもYes/Noではなく三段階で自己評価させるものです。どこが「やる気わくわく」なのか、理解不能ですし、「(私は)これこれします」という言い回しに対して○をつけさせるやり方は、「何も考えなくて良い、君の意見は聞かない」という、洗脳に似たものです。
 裏面では「国語の学習のめあてを作ろう。」と題して「ぼくの(わたしの)めあて」を書かせるのですが、その前に「ぼくのめあて」として「家で毎日音読を三回する。」、「わたしのめあて」として「一字一字正しくていねいに文字を書く。」を巨大な文字で例示しています。ジェンダーフリー教育の強まりへの対抗が明らかな、性別例示の典型ですが、何より私が驚いたのは、これが6年生の国語の教材だということです(ちなみに「めあて」という表現も相当な学校用語で、私には適当と思えません)。
 ご丁寧に用紙の両面とも隅に[関心・意欲・態度]と6年生の読める白抜き文字が印刷してあり、「君たちの態度を評価するぞ」と伝えているかのようです。言い換えれば、それはすなわち「本音と建て前を使い分けなさい」「表面できちんとできさえすれば良い」「横並びになりなさい」と教えているのに等しいではありませんか。
 時期的な符合を見ると、まさに今問題になっている風潮は、そうした教育を受け続けた当然の帰結であると考えられます。自分の頭で考えて答えを導き出すのではなく周囲の反応や発問者の言葉の使い方を瞬時に酌み取ることで“正解探し”に走る、いくら生徒に求めてもなかなか自由な意見を出してくれない、服装や持ち物まで周囲に合わさずにはいられない、本音を出さずに何を聞かれても「ビミョー」と言う……。
 この「できるだけ出る杭にはなるまいとし、それでも出る杭は打ち合い、とにかく他人に合わせる」ような行動様式は、昔からの“謙譲の文化”と絡んである程度は元々あったものでしょう。しかし、その規模や程度が以前に比べてずっと大きいことを実感しますし、最近では小学校高学年生でも(特に女子は)同様の状況になりつつあるようです。
 自分がどう思うかよりも自分が周囲からどう見られるかを最優先すれば、自分のことが解らなくなり、自信を失ってしまいます。
 少し前の話ですが、ディズニーシーで私は中学生らしい男女5人組にシャッターを切って欲しいと頼まれました。「はい、いいよ」と差し出した私の手には、いきなり使い切りカメラが5個も渡されたのです。若者なら親切に5回撮るところですが、私はついにここまで来たかと思いながら、すかさず「焼き増しして渡せばいいでしょ」と諭して一個のカメラしか受け取りませんでした。普通のオジサンなら5個の意味も解らないところでしょう。果たして、彼らはその日、さらには後日、人により異なる行動を取れたでしょうか。
 自信のなさを端的に表している一例としては、よく見る「(笑)」という表現です。ご承知の通り、本来は座談会等での席上の笑いや講演会などの聴衆の笑いを紙上で再現する場合のみに用いられていた表記です。
 この新しい表現法をすべて否定するつもりはありませんが、自らの発言や発信に対して自分で先に笑ってしまったのでは、私にはどうしても「笑え」としか読めません。事実、笑って欲しい場所や照れを伝えたい所で、相手にその判断を委ねられない表れでしょう。
 さて、あれこれ懸念したとしても社会に出て厳しい局面を乗り切るためには、他人に合わせずに考えたり自分らしさを押し出したりする必要に迫られて、力を発揮する人が少なくないでしょう。それでも、そこに届くまでの間、自分がありのままの姿でいることを許さない、かなり息苦しいものであろうことは想像に難くありません。
あやざきゆきお=事務局長
[機関紙『くさぶえ』 03年11月号掲載]
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