<48>
話し合いの手続きを大切にできない
“間違った多数決体験”の蔓延
綾崎幸生

 みんなで何かを決めてやろうとするときにどの程度能動的に行動するかは、その決め方に左右されます。決定に至る手順がいい加減だと子どもたちの動機が希薄で、平たく言えば乗り気でない活動になってしまいます。それは何も子どもについてだけ言えることではなく、大人の世界でも同じこと。上司が部下の意見を聞かずに独断で進めようとしても、PTAの役員が委員に諮らずに物事を運ぼうとしても、なかなかうまく行きません。
 これは実に当たり前のことに思えます。
 しかし、今の子どもたちの世界では、その当然のはずのことが極めてないがしろにされています。
  子どもたちが主体的に取り組む、質の高い活動をつくるうえで不可欠なのは、話し合いの手続きをいかに大切にするかという視点とそのための指導技術でしょう。
 具体的には、
 1)どの子も意見を言える雰囲気であること
 2)どの子がどういう意見を持っているのか、みんなが互いに知っていること
 3)対立意見や反論が明確にされること
などの過程が非常に重要です。
 仮に自分の意見が採用されなくても、考えをみんなに知ってもらえるか否か、さらにその意見をみんなが検討して、正当に理由付けされた反論をもらえるか否かが、不本意な決定を受け入れられるかどうかに大きく関わってきます。
 これらの条件が満たされて初めて「みんなで決めたこと」と言え、多数決が意味をもつようになるはずです。
 ところが、今の学生や高校生にこれまでの「多数決」経験を問えば、それとはほど遠い非常に危うい実態が浮かびます。
 まず、少なからぬ若者にとっての多数決は意見を募っていきなりどれが良いか決を採るという、おそらく四十歳代以上の人には信じられないものです。出た案の長短を論ずる前に採決とはずい分と乱暴なようですが、反論が出るのは稀、意見を尽くすことなどあり得ない、と彼らは口を揃えて言います。
 そこで、多数決を採るにあたって大切なことは何かと問えば、半数くらいの人は「少数意見の尊重」と答えられます。ではさらに、なぜ少数意見を尊重せねばならないのかを問うと、大方は「かわいそうだから」。おいおい、ちょっと待ってよ、そういう問題じゃないでしょと言いたくなるのを抑えて、そうかなぁという顔をしていると、「少数意見にも良いところがあるから」。確かにそうなんだけど、正解とするには弱い。しかも、ここまで答えられるのは二割程度に過ぎません。
 ずはり「多数意見が間違っていることがあるから」と説明できる学生は全体の数パーセントしかいないようです。
 述べるまでもありませんが、多数が誤っていた事実は数々の歴史が示しています。独裁政権は多数決から生まれて来ましたし、現在問題となっているさまざまな制度も多数決を経てきているのでしょう。
 私の体験からすれば、これらの原理は何も改めて社会科で習う以前に、どの学年でも毎週のように開かれる学級会で、いつかは必然的に話題に上って得る知識でした。
 しかし、およそ話し合いの手続きを軽視され続けてきた若者たちが次々と教員になっているわけですから、学級会そのものの退行が不可避なのかも知れません。
 ところで、学級会と言えば、生徒全員が顔を伏せた状態で挙手をさせられた経験をもつ方は多いでしょう。先の若者たちもほぼすべてが経験していました。
 大人になって考えれば気づきますが、あの採決方式の実態は、得票に関係なく教師に都合が良いものに勝手に決められている場合がしばしばあるのです。それは、どの意見が何票だったかを全く生徒に伝えることなく結果のみが告げられたという人が多いことからも明らかです。
 いちいち無記名投票や開票をやる暇がないというのはまやかしで、本来、誰がどのような意見を持っているかをお互いに知ることは直接民主制においてはなおのこと価値があるのではないでしょうか。
 一方、いくら生徒に意見を求めても、なかなか出してくれない──そんな感想が中高生や学生と関わる人から異口同音に聞かれるようになって久しく、最近では小学校高学年生でも同様の状況になってきています。
 できるだけ出る杭にはなるまいとし、それでも出る杭は打ち合う。とにかく目立たず他人に合わせようとする風潮は止まるところを知りません。次回は、何が若者を蝕んでいるのか、難題を考えます。
あやざきゆきお=事務局長
[機関紙『くさぶえ』 02年11月号掲載]
[バックナンバーリストへ]   [コラムトップへ]