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「順位なし徒競走」が醸成する
風呂で裸になれない若者達
綾崎幸生

 白馬のスキーキャンプで私たちが利用するホテルは二つの温泉大浴場が自慢です。同行した女性がそこで遭遇した出来事とは──
 二十歳前後とみられる三人組は脱衣所で何を恥ずかしがっているのか、なかなか裸になれない。バスタオルを巻いて下着を脱ぐのに苦労し、あれこれ牽制し合いながらやっとのことで浴用タオルで前を隠して浴室に向かったとか。あまりにおかしくて、その場で笑い出しそうになったそうです。
 都会の一般家庭にも風呂が完備されて久しく、大半の若者は公衆浴場を使ったことがない今、これが中学生の修学旅行での光景ならばよく聞く話です。また、体が急激に変化する思春期なら、裸を見られるのに多少抵抗を覚えるのはその意味に限り当然でしょう。無論、男風呂でもあることです。
 しかし、恥ずかしいという感情だけではない、「絶対に見られてなるものか」という行動と二十歳という年齢を考えると、単なる経験不足や希薄になった他人との関係だけでは済まないものを、ここに感じるのです。
 運動会では、保護者からさまざまな批判を浴びながらも、「みんな仲良くゴールイン」式の駆けっこ(もはや徒競走とは呼べない)がいろいろな場所で行われているようです。昨年、愛知県のある小学校ではあらかじめ足の速い子と遅い子、普通の子に分けたチームを作り、合計得点が必ず引き分けになるような出来レースを子どもたちが「納得」のうえで行ったと報じられました。
 大抵は「頑張ったどの子も讃えたい」などの理由から平等やら公平やらの言葉が当てはめられて正当化されるわけですが、それらの方法が本当に個人や個性を尊重することにつながるのか、はなはだ疑問です。
 実は多くの場合、そういったやり方は「遅いことはいけないことなのだ」「走るのが遅い人はだめ(な人間)なのだ」と伝えていることにほかならないのです。
 かつて本欄でも取り上げましたが、スキー教室で用具所有者や買いたい人も含めた全員にレンタルを強制することは、「買えないことは悪いことなのだ」「貧乏は悪いことなのだ」と教えているに等しいのです。
 本来、個人の姿を認めるとは、高橋さんは足がのろい、山本君の家は金がない、だが、だからといって彼らが人間的に何ら劣っているわけではないのを認める、ということでなくてはならないはずです。
 つまるところ、脱衣所で着替えられない学生たちには、おっぱいが小さい人やおちんちんが大きい人や、いろんな人がいて当たり前だと思える体験が不足、欠如しています。
 それは同時に「あなたはあなたのままで良いのですよ」と認められずに育った証しでもあります。自分のありのままの姿を出せず、したがって他人の姿も受け入れづらい人生とは、相当に息苦しいものでしょう。
 これは決して大袈裟な話ではなく、例えば女性や障害者、外国人に対する差別意識などとも直結する問題でもあるため、自戒を込めつつ次回に続けます。
あやざきゆきお=事務局長
[機関紙『くさぶえ』 01年2月号掲載]
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