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慣らされている現状に疑問をもち
わずかな社会進歩につなげましょう
綾崎幸生

 授業中にボーッとしていた生徒に向かって「お前なんか死ね」「殺すぞ」と言い放った教師が脅迫の疑いで書類送検されたことが報じられました。そこそこの大きさに扱われたために結構知られていると思いますが、多くの人はその発言に「ひどいなあ」という感想を持ったことでしょう。
 また一方で、ボーッとしていたのだから仕方ない、それくらいの言葉を投げ付けられたくらいで不登校になる方がおかしい、という意見も少数ながらあるのは事実でしょう。
 しかし、だからと言って「後者の気持ちも理解できる」とはなりません。後者の意見が存在する事象は認めても、それは後者の意見の中身を認めることとは根本的に違います。
 当たり前のことのようですが、実際に身の回りでは自分と異なる意見に出くわしたときに、私たちは往々にして「ものわかり」が良くなりすぎていないでしょうか。
 それが「ラーメンにレンゲは必要か否か」といった真にどうでも良いテーマならばともかく、我が子を取り巻く大事な問題であればきちんと本質を見極めていたいものです。
 そもそも、この件のニュース性が高かったのは、この程度の暴言はいくらでもあろうと疑われるのに、それが脅迫にあたるとして罪に問われるところにあります。この手の事件は本コラムの回数以上に発生するために話題に事欠かない状況が続いていますが、これまで学校内の暴力に極めて甘かった法運用が、一般人の感覚に近づいていることを示す朗報ではないでしょうか。
 さて、ここで前回予告した「現状批判が多く一体どうすれば良いのか」とのご指摘について触れます。
 小欄で取り上げるような事柄に問題意識を持って批判した後、具体的にどうすべきかを簡単に(※)論じるのは、場合にもよりますが(※)非常に難しいことです。それは、子どもが違えば親も地域の気質もと、あまりに個々の事情が異なるからです。意見を一般化しようとすれば結局上の※印のような表現が入り、先に述べたAも正論だがBの気持ちも理解できるというような、ものわかりの良い本質をぼかした議論になりがちです。
 元々責任の取れない部分に言及するのは控えたいという意味では、確かに責任逃れかもしれません。しかし、敢えて不遜な言い方をすれば、身近な問題については当事者が自分たちやその周囲の力で解決して行くしか、実効を伴う方法はないでしょう。
 私に書けることは、アルプス子ども会が具体的に何をどうするかという説明は当然として、慣らされてしまっている今の状況について「ここがおかしいのではないか」という問題提起だろうと自負しています。もちろん、問題とされる個人を責めても意味がないわけで、問題を起こしている個人が生じるシステムを「攻める」必要を痛感します。
 そして、何ごとも異論をぶつけることからより良いものが導き出されるという姿勢を保つ子ども会でありたいと考えています。
 今後もご批判、ご指導くださいますよう、お願いいたします。
あやざきゆきお=事務局長
[機関紙『くさぶえ』 00年2月号掲載]
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