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トイレに立った生徒を信頼した教師が
無言で示した「自由と責任」
綾崎幸生

 わが家では、小2の娘がわがままを言ったときなどに半分本気で「権利を主張する前に義務を果たしなさい」と言い返してやることがあります。それを聞きかじっていた4歳の娘、保育園で友だちに向かってついに「ケンリをシュチョウするまえにギムをハタセッ!!」と叫んだとか。園児呆然、保母爆笑となったようですが、あながち場違いの発言ではなかったみたいでした。「やるべきことをやってからやりたいことをやれ」という意味は何となく解っているのかもしれません。
 権利と義務、甘やかしと自主性の尊重。子育ての中で避けては通れない課題です。
 今から二十数年前、高校生だった私は早弁がたたったのか数学の時間に腹痛に見舞われて、急にトイレに行きたくなりました。
 私は授業を進めている最中の教師の言葉を遮りたくありませんでした。集中しているクラスメートの邪魔をしたくもありませんでした。そこで、極めて自然な行為だったと思うのですが、何も言わずに静かに立ち上がり、そのまま教室を出ました。
 渋谷先生は、何ごともなかったように授業を続け、私は無事に用を足すことができました。それから階段を降りて外に出て、その頃はやっていた雀荘に行ってしまうことも、やろうと思えば可能でした。
 しかし、何も言わずに私を信頼してくれた教師を裏切ることはできず、真っすぐに席へ戻りました。
 その時はあまりピンときたわけではありませんが、このことはその後も忘れ難く、繰り返し心に浮かびます。自由とは何なのか、責任とは何なのかを否応無しに自分の頭で考えさせられる、非常に重要な経験でした。
 さて、その「自分で考えることの大切さ」を教えようと、東京・八王子市の教師が地下鉄サリン事件の記事を示して官僚汚職や薬害エイズ、国旗国歌問題に言及し、学校の指導をどう考えるかを中学3年生に問いかけました。
 それが地方公務員法(信用失墜行為の禁止)に抵触するとのことで文書訓告を受けるという、何とも嫌な事件が伝えられました。
 直接取材はしていませんが、報道が事実とすれば、その教諭は特定意見を押し付けたのでもなく「考えよう」と呼びかけた行為自体が処分されたわけで、それは行政による教員の支配がここまで来ている表れでしょうか。
 現状を認めると、結局は上が言うことは絶対であり信じなさいと教え込むしかない状況に陥り、そうなれば子どもたちの判断力や思考力を養うなど期待する方が無理です。もはや教育の名に値しない『調教』に過ぎません。
 「自ら考え、行動する子どもを育てる」は文部省自らがやっと新しく掲げた精神のはずですが、各地の実態はそれと程遠いのです。


 次号で小欄も40号を迎えます。当初は一方的な発信でしたが、最近は毎回必ず何かしらの反響をいただけるようになりました。次回はその中から「現状批判ばかりで一体どうすれば良いのかが見えない」とのご指摘に、お応えしましょう。
あやざきゆきお=事務局長
[機関紙『くさぶえ』 99年11月号掲載]
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