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「厳しい」と言われる管理主義教育こそが
責任能力や判断力を損なっている
綾崎幸生

 25年めという節目の『夏の子ども会』でしたが、全体的にそれにふさわしい盛り上がりを見せ、大過なく終了しました。
 今年は国連の児童の権利宣言から丸40周年、子どもの権利条約の採択からも早10周年の年であり、ここで決意を新たにして活動して行きたいと考えています。
 事後のアンケートには今年も非常に多くの回答をいただきました。切手を負担いただいたにもかかわらず大勢お送りくださいましてありがとうございました。自由記述欄では厳しい指摘も含めて、私共への期待の大きさを痛感します。スタッフへの励みになるお便り等、深く感謝いたします。

 教師や大人の思い通りに子どもを「支配する」教育が厳しいのか、子どもたちに考えさせて「面倒な手続きを踏む」ことが甘やかしなのかを考えるとき、思い起こさずにいられないのが、神戸高塚高校の事件です。
 今から九年と少し前、朝の“校門指導”で生徒のIさんが、よりによって教師に殺されたもので、記憶にある人も多いでしょう。門扉を力任せに閉めようとして生徒の頭に打ち付けた「熱心な」教師の行動が論外だったことは当然です。
 しかし、そもそもなぜ高校生に校門指導が必要なのでしょうか。子どもたちが、高校生にもなってなお力ずくの指導を受けねば定刻に登校できないこと自体、それまでに受けてきた教育がいかに無意味だったかを示しています。始業に間に合うように行く、あるいは遅れたときにそれだけ自分が失うものがあることを甘受するなど、そういう力をつけられてきていないのです。
 だから、問題の根源は高校の指導方法以前の教育の質にあり、そこを問う必要があるのではないでしょうか。神戸市は大都市には珍しい管理主義教育で知られますが、高校生が各自の判断と責任で登校することすらできない事実は、結局、小中学校で受けてきた「大人が支配する教育」がいかに生徒の自立を損なっているかを端的に表しているのです。
 年に数回、仕事で名古屋に行きますが、愛知というと、やはり管理主義教育と、交通マナーの悪さが気になります。
 以前、車に乗っていて驚いたのは[車線変更は合図を]という標識です。レーン変更や右左折時に方向指示器を点滅させるのは、運転免許を持っていなくても常識ですが、それをしばしば見かけるほど、合図しない人が多いのでしょう。そして、最近ついに[赤信号では止まれ]を見つけました。
 この表示がどれほどの効果をもたらすかは疑問ですが、こんな幼児に言うようなことを指示されて空しくないのか、住んでいる人はこれを見て悲しくないのかと思います。
 大人になっても他人に注意されなければルールを守れないところに、子ども時代に受けた“支配”との因果関係が見えるのです。周辺の岐阜や静岡などでも行われている管理主義教育は、子どもの自律心を奪い、人間の成長を阻んでいると考えます。
あやざきゆきお=事務局長
[機関紙『くさぶえ』 99年10月号掲載]
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