長期特例が話題になった今年のゴールデンウィーク、テレビニュースで「10連休をどう過ごすか」の問いに、二十歳台と思しき男性が「何をやっていいか解らない」と言うのを見て、私は唖然としました。放送局がGWらしい風景を狙って切り取ったのかも知れませんが、その回答は「何をして生きればいいか解らない」に等しいと受け止めることもでき、それを全国オンエアされる可能性がある公共放送の街頭インタビューに答えてしまうとは、彼にさまざまな事情があった可能性はあるにせよ、ものを考えないにもほどがあるのではないかと感じたのです。

 世に「いい若いもんがゴロゴロして……」といった表現がありますが、それは若い内は好奇心や行動力が旺盛なものだとの認識が共有されているからです。では、一体なぜ彼のような人が出てしまうのか。カメラの前でそこまでは言わなくても、長い休みに暇を持て余している人は少なからずいると容易に想像できますが、若者がそうなってしまったのなら、環境や育ちに目を向ける必要があると思います。
 彼らの眼中には、本を読む多様な喜びや図書館の存在も、まだ被災地が支援を必要としている意識もありません。そんなに遠くなくても、助けを求めている老人や障害者などの隣人は身近でないのでしょう。そして、それらの存在を知らされても、自分に何かができるとは考えていませんし、自分には何もできないと思わされてきたのかも知れません。
 いえ、そんな社会的なことでなくても、自然に触れたりその美しさに気づく言葉がけをもらったりせずに育てば、少し歩けば手に入る新緑は目に染みませんし、鳥のさえずりも脳には届きません。いろいろな環境や育ちが、本来持つはずの能力を奪ってしまいました。
 さて、「彼ら」がどうだったのかはさておき、子どもに自分で考えさせる機会が減っている、換言すれば裁量が狭められていると大変危惧するのは、小遣い額の減少です。各種調査によれば、小中高生の平均額が、国鉄=現JRの初乗り運賃が30円だった約半世紀も前と変わらないか、減っています。その理由として、菓子はまとめて家に買ってある、文具や服は全て親が別に買う、まんがや雑誌はネットで買うから勘定外になるなどの状況変化が挙げられます。
 子どもが自分で買おうか買うまいかを考えて決める、あるいはどれを買おうか悩むといった機会が失われつつあり、それが何を意味するかと言えば、あぁこれを買うんじゃなかった、無駄遣いをしてしまったと後悔して、失敗を繰り返さないように頭を使う機会をも奪っていることです。また、何かに使ったたびにレシートを出してお金をもらう「都度精算方式」が増えているようですが、これは事実上の青天井になるか、親の顔色をうかがいながらの支出となって、そこに真の自由はありません。
 もちろん、金額は家計の情況によりますが、自分の裁量を持つことが大人への一歩ですし、私は中高生リーダーたちには小遣いを定額制にしてもらうことを勧めています。いくら家庭の教育方針だと言われても、子離れに無自覚な親は進学や就職、結婚、携帯キャリアにまで口を挟むなど、永遠に子を支配しようとするものですから。

綾崎幸生(あやざきゆきお)=会顧問
[会報『くさぶえ』 19年7月号掲載]