中 村 仁 美 さ ん を 悼 む
 小学一年生の時からアルプス子ども会に参加、中高生リーダーを経て学生リーダーとして活動してきた「もずく」こと中村仁美さんが2005年6月9日午後、闘病むなしく入院先の都立病院で亡くなりました。
 中村さんは2002年秋に全く突然、急性骨髄性白血病に罹り、過酷な 治療に耐えた後、翌夏に「やまびこ村」リーダーとして奇跡的な復帰を果たしました。
 しかし、本年2月に再発、病魔に打ち克つことはできずに、22歳というあまりに若い生涯の幕を閉じました。逝去を前にして、彼女と親しかったリーダーたちは、理不尽と無念の大きさに慟哭を禁じ得ません。
 ここに衷心より哀悼哀惜の意を表します。
 彼女がもっと見たかったであろう景色の中で、彼女の分まで歌い笑い、より力を出し尽くす子ども会を創るべく、決意を新たに頑張ろうではありませんか。 2005年6月22日 事務局長 綾崎幸生

一周忌に際し 留学先のアメリカから駆けつけたOG網野舞子さん(クラッカー)による葬儀時の弔辞を掲載します。寄稿のご厚意に心より感謝いたします。[PDF版はこちら] (2006年6月9日)

三回忌に寄せて
 あれから丸二年が過ぎました。ご遺族はじめ近しい人々にとっては非常に長い日々だったことと思います。
 私たちは、もっと彼女と話したり行動したりできたはずなのにそこまでしなかったことを、今なお悔やみ、悼み、そして改めて彼女の不存在を実感させられるのです。
 その無念を、現在関わりのある生きている人やこれから出会う仲間との新たな交流、そして信頼を築く力へつなげるために、彼女の姿を胸に刻み続けます。 2007年6月6日 会代表 綾崎幸生

五周忌に寄せて
 彼女が早世して六度めの夏を迎えようとしています。当時の高校生さえも徐々に社会人となり、リーダーにも「もずく」を知らない人が増えました。しかし、彼女や周囲の無念を記憶にとどめることで、各々が「生きること」の意味を問い直し、日々の時間を大切に過ごすことは大変有益です。
 ここに、仁美さんの不存在を今なお悼みつつ、改めて彼女の「生」と「志」を反芻して、自らの言葉の力と行動力を高める源に活かしたいと思います。 2010年6月6日 会代表 綾崎幸生
  弔 辞  最後にもう一度会って話がしたかった
 ひとちゃん、おそくなってごめんね。最後にもう一度会って話しがしたかった。伝えきれなかった感謝の気持ちを伝えたかった。ひとちゃんの言葉を借りて言えば、一生当たり前に続くと思っていた友達だから、これから先、永遠にひとちゃんを失ってしまって途方にくれている。今この場を借りてその思いを伝えたいというのは私のわがままだし、自己満足かもしれないけれど、そこは大目に見て、聞いてほしい。

 ひとちゃんとの出会いは私たちが中学2年のとき、夏の長野のキャンプでのことだった。数日前に出会ったばかりの50人あまりの仲間たちから村長に選ばれたひとちゃん。10日間のキャンプも終盤になってきたある日の夜、ずっと一人で責任を背負っていたひとちゃんは、みんなの前で、村長になってから自分がひとりぼっちのような気がしていたって泣いて訴えたよね。自分が孤独だと感じるときに、孤独を感じると泣いて訴えられるひとちゃんの素直さに、私は衝撃を受けた。人に対して真っ直ぐにぶつかってくるひとちゃんが私にはまぶしかった。そのまぶしさは、その後培われる私たちの友情において私を魅了し続けることになる。私にはひとちゃんの真摯な生き方がいつもまぶしかった。
 出会いから二年後、戸山高校の入試で私たちは劇的な再会を果たし、入学してみれば同じクラスで、そこからの思い出は数え切れない。好奇心旺盛で何事にも一生懸命なひとちゃん。アメフト部のマネージャーとして休日もなく汗だくになって活動し、アルプス子ども会の研修や夏のキャンプに一緒に参加し、三年生のときは、一緒に卒業式委員になり、国旗国歌について毎日のように議論をしたね。大学に入って、夏に東ティモールに行こうといわれたときは私はただただ驚いただけだったけれども、ひとちゃんは、国民の手で独立民主化した国をこの眼で見たいと本当に行ってしまった。猪突猛進の嫌いはあったけれど、こうと決めたら譲らず、真理を追い求めて突き進むひとちゃんが私は大好きだった。
 同時に、社会や教育についての鋭い洞察力と正義感もひとちゃんの魅力だった。イラクで日本人が人質にとられたとき、簡単に命を切り捨てるような首相の発言が許せないと泣いて電話をくれたね。ひとちゃんのその真っ直ぐな怒りと正義感に、私は心が洗われるような思いがしたよ。
 闘病生活においても、ひとちゃんは本当にひとちゃんらしく生きたと思う。たとえ病気でも入院していても、一人の自立した大人でいたいと願い、実行するひとちゃん。アメリカにいる私と少し連絡が途絶えたとき、「大丈夫?心配するからメールして」とメールをくれた。それは私の台詞だ、と思ったその後に、「あぁ、私たちはどこまでいっても対等なのだ」と反省したよ。私がひとちゃんの体を心配するように、ひとちゃんも私の海外生活を心配する。私たちは決して、病人と健常者、というくくりにはならない。どんな人生も同じ尊さをもって存在し、人の人生に決して優劣はつかないという大事なことをひとちゃんは私に教えてくれたと思う。

 高校のときも、大学で離れても、ひとちゃんが入院しても、私がアメリカへ行って海を隔てても、私はいつもひとちゃんを生き方の指針にしてきた。私は自分に恥ずかしくない生き方をしたいと願って生きてきたけれど、それは同時にひとちゃんに恥ずかしくない生き方をしたいということでもあった。
 人との信頼関係に悩むときは、ひとちゃんのようにまず自分が素直な気持ちを表現しなければ、と思い直し、自分の夢に妥協しそうになったり人生を怠けそうになったりしたときには、ひとちゃんの真っ直ぐな生き方に背中を押された。大学でいい講義を聞けば、ひとちゃんに伝えたいと思い、社会で起こるさまざまな出来事に、ひとちゃんならどう思うだろうと考えた。
 そうやってどこにいても私はひとちゃんと共に生きてきたと思う。そしてこれからもずっと、ひとちゃんは私の生きる道しるべで、私はずっとひとちゃんと共に生きていくのだと思う。つまりそれは、これからも何も変わらないってことだよね。私は決してひとちゃんを失ってはいない。
 ひとちゃんに出会えたこと、あなたがくれたたくさんのものに感謝してもしきれないよ。おばあちゃんになったら茶飲み友達になろうという約束は果たせなかったけれど、
 私がいつかおばあちゃんになって、ひとちゃんにもう一度会えるときが来たら、そのときはゆっくり、最後にできなかった話をしよう。

大好きなひとちゃんへ
2005.6.13 網 野 舞 子 (クラッカー)





■「第22回夏の子ども会」やまびこ村D組で村長を務めたもずく↓=当時じんじん=最前列中央で両手を広げて

この組からはアミーゴ、クラッカー、スリッパ、側転、つくし、つみき、八兵衛、ポケット、もんじゃ他、非常に多くのリーダーを輩出した。1996年8月