アルプス子ども会がめざすこと
一人の例外もなく
支え、守り合う関係


  1 すべての力はあそび体験から
  2 子どもの可能性と環境
  3 どんなつながりを求めるか
  4 子どもを人として尊重する
  5 体験の共有・共同化
  6 仲間づくりの力を育むために
  7 組づくりの方法
  8 特別な日に得た力を日常へ
16/04 改訂版
はじめに 次へ
 私たちの社会は、子どもたちが生き生きとあそび、学び、成長できる場を本当に保障できているでしょうか。ありのままの姿を認め合い、安心してつきあえる対等な人間関係をどれだけ築けているでしょうか。
 いつの時代にも子どもや若者への懸念が取り沙汰され、親の心配は絶えないものですが、それでも、今日ほど子どもが本来の子どもらしさを発揮しながら大人に成長していくことが難しい、換言すれば子どもを魅力ある大人に育てにくい社会は無かったのではないでしょうか。
 子どもや教育をめぐる芳しくない話題に事欠かない状況がずっと続く中、企業や組織などからは、他者と関わる力=「コミュニケーション能力」がますます求められています。身の周りでも諸問題の解決を突き詰めれば、結局、対人関係に行き当たる場合が多いとも思われます。
 にもかかわらず、都会のビルではエレベーターに乗ろうとする人がいるのに詰めてもらえず、すれ違いざまに誰かとぶつかっても振り返るどころか反応一つ無く、友人や家族と旅行しているのに各人別々にポータブルプレーヤーや携帯電話機をいじり続け、電話なら5分で話せる内容をメールで1時間打ち合い、あげくは夜遅くに子ども向け番組が放映されて何ら非難されずといった状況を目の当たりにする時、私たちを取り巻く従来の人間的なコミュニケーションは大変な状況にあるのではないかと危惧されます。
 自分をうまく伝えられない「でも」「何となく」といった曖昧表現の蔓延が指摘されて久しく、友人関係がメール数十文字の齟齬で簡単に壊れてしまうような、もろくも手軽な関係が広がっています。そこに、対人コミュニケーション能力が丁寧に育まれるべき子どもたちが晒されているのです。
 東日本大震災に際しては、「想定外の事象に柔軟に対処する力」や、「実際に行動する力」、「自分の頭で考えて安全を確保する力」などが大きく注目されました。それらは自分にとって不都合な人や物に向き合ったり、みんなの合意を形成したり、同調圧力をはねのけ異論や少数弱者に耳を傾けたりすることでこそ、身につく力なのではないでしょうか。
1 すべての力はあそび体験から 次へ 前へ
原っぱで「源平合戦」 若年層のコミュニケーションの不具合には生活様式の大きな変化や教育のあり方など、いくつもの原因が挙げられましょうが、その一つは明らかに「あそび」体験の減少(場面によっては欠如)と、質の変化にあると考えられます。
 本来、子どもは年齢に応じたあそび集団の中で、いさかいを起こしたりけんかをしたり、意地悪をしたりされたり、謝ったり謝られたり、謝らなかったり謝られなかったり、仲裁をしたりされたり、仲直りをしたり仲違いをしたりといったことを幾度も幾度も繰り返し、自分の主張を伝え相手の主張を聞き入れる方法を、自然と身につけていくものです。また、みんながより楽しくあそべるように、「みそっかす」(地方により「おまめ」他)、「取り取り」などを編み出して、いろいろなあそびのルールを適宜変更、発展させるなどの工夫をしてきた訳ですが、それにも、そこにいるみんなが納得・同意するために実にさまざまなやり取りが不可欠でした。
 しかし現在、携帯ゲーム機器のはびこりや習い事の一般化その他、いろいろな理由によって多くの子どもたちがあそびに使う空間も時間も、非常に限られたものになってしまいました。
 少人数、屋内、閉鎖的といったあそびの中には、本来内包する意外性や発展性を求めることは困難です。その結果、違いを認め合えず、自分の気持ちを相手に伝える術が著しく拙い関係が広がっているように見えます。
 さらに、そのコミュニケーションが密接に関わる思考力や精神の発達にも危機感を覚えます。
 例えば、テレビ番組で常態化した字幕の嵐やひたすら同じ場面の繰り返しと「まとめ」に「おさらい」、別枠に映される出演タレントの表情などは、「ここは笑うところだ」「これは悲しいことだ」と感じ方を示しているのと同じです。慣らされてしまうと、どうと言うことのない画面に見えるかも知れませんが、日常に氾濫するそのような光景は、実は知らずと心の成長を阻害しているのではないでしょうか。私たちの内心は(憲法第19条に保障されてもいますが)、そもそも、誰にも干渉されぬ自分だけのものであるべきです。子どもの心に見えない制約を被せてはのびのび育つはずもありません。
 こうした状況で改めて自問するのは、どのような「人と人とのつながり」を求め、どのように子どもたちのあそびを保障するか、です。
 子どもが生き生きと子どもらしく育つために、本来彼らが持つ力を引き出し、信頼できる仲間と思いきり笑い合う毎日を送ってほしい、それが私たちの願いです。
 私たちは四十年近くにわたる活動の中で、子どもたちの力に何度も驚かされてきました。子どもは元々、大人の漠然とした想像以上に大きなエネルギーを秘め、何にでもなれる長い「伸びしろ」を持った存在だということを実感しています。
 そしてその力は、他者との関わりの中でこそ、引き出されて真価を発揮します。人と人との多様な触れ合いの中で、思いきり笑い、泣き、あそぶ生活体験を通じて、子どもの本当の力を引き出すことが私たちの役割です。
 では、子どもたちの「本当の力」とはどのようなもので、それを一体どうやって引き出すのが良いのでしょうか。
2 子どもの可能性と環境 次へ 前へ
勇気を出せば飛び込める 『夏の子ども会』の舞台は、緑深い山に囲まれた長野県駒ヶ根市にあります。野外活動施設が整い、菜園や運動場もある、子どもたちのキャンプ生活には絶好の会場です。この中に、毎年、さまざまな子どもたちの姿があります。
 集合地ではお母さんの後ろでおずおずとこちらをうかがっていたのが、バスに乗ってしばらくすると、はじけるような笑顔で話しかけてきてくれる子。ホームシックで泣いていたのに、班の誰かがおなかが痛いと言ったら、みんなと一緒になって心配し、「大丈夫?」と声を掛けてくれる子。言葉があまり通じなくても笑い合い、片言の日本語と英語でも身振り手振りで必死に伝え合っている姿。
 全くのゼロからプログラムを決め、毎日食事作りをして、生活のルールをみんなで決めていくコースもあります。みんなの前で発言するのが苦手だと言って緊張しながらも、立派に60人の前で意見を述べきって見せた子がいました。
 日常でもこのような姿が見られることはあるでしょうし、全ての子が突然大きな変化を遂げるわけではありませんが、やはり、それまでにはできなかったことが「できるようになった」ことを、大きな喜びとして帰る子どもたちは多いようです。
 ここに、私たちの考える子どもたちの「本当の力」の源があると受け止めています。
 そしてそれは、成長できる力、他者を思いやり信頼できる力、仲間と共同して問題を一つひとつ解決する力など、いろいろな力として開花するのでしょう。私たち大人が、どうせ子どもにはできないだろうと諦めていたり、あるいはついつい手や口を出し過ぎていたりして、無意識に定めてしまいがちな「限界」を、たやすく超えていく可能性や、これからの社会を担っていく将来性を感じて、大きな期待を抱くことができます。
 もちろん、子どもだけでなく人間は環境次第で大きな力を発揮する可能性を秘めますので、参加する子どもだけが特別であるはずはありませんが、もう一つ、子どもの力を引き出す決定的な引き金があります。
 それは、当然ながら保護者と遠く離れて生活するという環境です。子どもは、いつもは傍らにいて助けてくれる人がいなければ、自分でやるしかありません。この絶体絶命のピンチこそ、子どもの潜在力をぐんと引き出すチャンスです。さみしいけど不安だけど、やってみるしかない。そんな気持ちが原動力となるのでしょう。
 また、知らない人と新たな人間関係を築けることも大きな条件です。すでにできあがってしまっている友だち関係の中では、こうしなければならない、これが求められる、と先回りしてしまって、自分のありのままの姿や素直な欲求を出せないことが多々あります。それに対して、アルプス子ども会では、基本的にどの子も「初めまして」の同じスタートラインから始まります。既存のヒエラルキー(ピラミッド型階層秩序)や、近年「○○キャラ(クター)」といった使われ方をする固定化した性格付けに縛られずに、自由な自分を演出できる効果は決して小さくありません。
 いずれにせよ、非日常という環境が、新しい自分に挑戦してみよう、という動機を引き出すのでしょう。そんな確かな意志を、私たちは応援したいのです。
3 どんなつながりを求めるか 次へ 前へ
「お互いが守りあえる仲間づくりを」 従来私たちが主張していた「人と人とのつながりの重要性」が、二十年ほど前から、まるで取ってつけたかのように教育やしつけをめぐるさまざまな場所で喧伝されるようになりました。
 しかし、結局その中身は上意下達式のつながりに過ぎないことが少なくありません。異年齢=大人と接することが大切だ、だから土曜日に空き缶拾いに集まろう、となるように。確かに、今の子どもたちにとって親以外の大人と触れ合うことは重要ですが、その空き缶を誰がポイ捨てしたのかが問われることもなく単なる奉仕作業に駆り出されたところで、果たしてどのような「つながり」が持てるでしょうか。
 私たちがめざす「つながり」は「支え合い、守り合う」人間関係です。
 あなたは必要な人間であると伝え、ありのままの存在を受け入れること。そして同じように、隣のあの子も存在が丸ごと肯定されるべきであり、それは能力や生まれ育ちや性別に全く無関係であると理解しようとすること。さらに、私とあなたとあの子とみんなで問題を一つひとつ解決していけるのだという認識を共有すること。みんなの成功や、誰か一人の小さな成長を全員で喜べること。
 今、社会に必要とされるのは、そういった「人と人とのつながり」だと私たちは考えます。
 そもそも、他者に頼られその人の力になれることは人間の根源的な喜びと言っても過言ではないでしょう。低学年主体のキャンプでも、小学1年生が年長幼児の存在を意識し、彼らを支えようとして思わぬ力を発揮する姿はよく見られます。そんな時、子どもたちの表情は嬉しさに溢れています。
 自分が誰かに必要とされ、同時に誰かの存在が自分を潤しているという実感を持てるから、生き生きと自己表現できるし、その結果、独りではできないことにも仲間と力を合わせて挑みたくなるのです。
 それこそが、テレビゲームや遊園地とは違う、アルプス子ども会のめざす楽しさです。与えられたものに「楽しまされる」だけではなく、能動的に参加し、自らの手が加わった喜びを伝えたいのです。
 さて、こういった「支え守り合う関係」は名実ともに「一人の例外もなく」実現するのでなくては、つまり例外を認めては意味がありません。
 ある姉弟が、父親が重大な犯罪者だという理由で自治体から転入を拒まれたり、私立の大学と中学それぞれに合格した後に複数の学校から入学を拒否されたりした事件がありました。
 裁判所はそれらの不当性を断じましたが、「他の住民が安心できないから」「学生や保護者から理解を得られないから」と罪無き者の排除を許す世論は、何かあれば結局あなたも私も守られないことを是認するのと同等です。
 私たちは、弱い子も強い子も乱暴な子もおとなしい子も例外なく楽しめるキャンプをめざします。少数の意見こそ大切にし、行動がゆっくりな子をみんなでカバーし、問題を抱える子を排除せずになぜそうなってしまうのかを考えて解決しようとします。それが「支え合い、守り合う」ことの真の意味だと考えます。
4 子どもを人として尊重する 次へ 前へ
子どもにもできること アルプス子ども会のリーダーはふだんの行事や生活の中で、原則的に笛を使いません。みんなが集まる時には「集まって」と言うだけで十分ですし、歌をうたいながら集まることも多いです(例外的に、危険が予測される緊急の場合や声が届きにくい川あそびやゲームなどの合図に最低限の笛を用いることはあります)。
 学校などで、笛で動かされることに慣れた子たちに対して、注意を引いたり静かにさせたりする時など、笛は有効な管理手段に違いありません。しかし子どもの身になれば、笛で呼ばれるよりもうたいながら集まった方が楽しいし、言葉で伝えられた方が受け入れやすいことが多いのではないでしょうか。必要が無いから使わないだけのことではありますが、考えてみると子どもをモノのように扱うのではなく、人間として尊重しようとすれば、おのずと笛を使わずに済む方法が浮かびます。
 「前へ習え」や整列も同じ理由で使いません。 小中学校ではそれがごく当たり前のように行われていますが、頭を少し柔らかくして想像すれば、必ずしも整然と並ばなくても良いように思います。大人数を一斉に教える学校では、並んでいないとおしゃべりが多くなる、集まるのに時間がかかり人数確認が難しいなどの心配がありそうですが、あそびが目的の子ども会では、多少おしゃべりが増えても構いませんし、実際に集まるのに余計な時間がかかるとも感じません。人数確認はゲームを用いて楽しくすることも可能でしょう。子どもをリーダーの指示通りに動くだけの駒として扱わずに、人間として尊重するためには、かける価値のある手間です。
 もう一つ、アルプス子ども会のリーダーには全員愉快なあだ名がついています。参加してくる子どもたちにも、みんなであだ名や呼び名をつけ合います。高学年生も年下の子もリーダーも裏方スタッフ『ごはんぐんだん』も、皆お互いをあだ名で呼び合っています。
 そうすることによって、年齢差から生じがちな指示する人とそれに従う人、指導する者とされる者といった役割分担や状況を排し、初めから親しみやすい対等なメンバーであるという情況を作ることができるのです。
 これらの工夫だけでなく、全ての場面で、リーダーは子どもを「一人の人間として尊重」する姿勢を大切にして、働きかけや言葉がけを行います。また、その理想を日常から具体的に実践し、人間的な成長を遂げるために次の三点をリーダー研修の重視項目に掲げています。
 a) 社会的弱者への意識
 b) 多様な生き方の認め合い
 c) 科学的・多面的な物の見方
5 体験の共有・共同化 次へ 前へ
すいがか割れたのではなく…… 支え守り合う関係を作るために、私たちが大事にしているのは“共有体験”です。あの子と私、君と僕、一人が欠けても成り立たない、できたことが全員で喜び合える、失敗にも共感し合える、そのような体験をめざします。
 例えばみんなでテントを張るにしても、ロープの角度や立てる順序などのしきたりには(風の強い山頂に張る時など安全に関わる場合を除き)あまりこだわりません。技術習得をめざすキャンプでそれが重視されるのは当たり前ですが、細かいノウハウにこだわっていると結局子どもたちは駒になってしまいます。それよりは、少しくらい時間がかかっても最高の出来にならなくても構わないから、仲間同士であれこれ相談しながら進めることに価値を見出そうというのが、私たちのやり方です。
 各コースのプログラムに食事作りを設定しているのも「食べないとやっていけない」という生活に直結した状況を作り、各人が主体的に関われる共同の作業を求めるためです。水が多すぎるのではないか、いや減らさない方が良いなどと子ども同士が話して、やってみてどうだったのかを大切にします。たとえ失敗しても、その結果をみんなでどのように受け止めるかが肝心です。
 リーダーはそういった場面で、単に技術的な指導をしながら同じ仲間としてアドバイスをするだけでなく、子どもの発案や彼らから教わる事柄を柔軟に受け止め、共に作り上げる姿勢を保つように心がけます。
 ほぼ全てのコースで取り入れている集団野外ゲームも、重要な共有体験として取り組んでいることの一つです。例外なく一人ひとりが楽しめるゲーム作りを通して、各人がチームに貢献しているという実感や、他のメンバーがいないと勝つことができないという経験から仲間意識を育てます。作戦を立てるには自分の頭を使って知恵を絞り、意見を伝え合わなければなりませんし、その結果勝利したことは独りでは味わえない大きな喜びです。そして、そんな共通体験がある仲間だからこそ、他の局面でも友だちの喜びがみんなの喜びとなり得ます。
 また、一見個人の体験に止まりそうな釣りや工作中心のコースでも共同作業を取り入れて、みんなが協力する必然性のあるプログラムになるように強く意図しながら運営しています。登山の素人である子どもたちが重い荷物を背負って高山の頂にたどり着けるのも、そんな共同作業ゆえの成果でしょう。
 個人の好みに応じてそれぞれがやりたいことをやったり、みんなが同じことをやっていても個人作業に終始するプログラムでは、参加者同士の関わりは生まれにくく、私たちのめざす「人と人とのつながり」を築くことは困難です。
 ところで、集団生活をセールスポイントにしている野外活動団体は数多くあります。しかし、「集団生活のルール、マナーを身につける」という名のもとに、一糸乱れず行進することを評価したり、無原則に他人に合わせることを教え込んだりする団体とアルプス子ども会とは根本的に異なります。私たちは、機械的な集団訓練のような指導の仕方では、他から強要された規律に盲目的に従う態度が育てられ、一人ひとりの内面の豊かさや主体性、自主性は損なわれてしまうと考えます。
 自分の考えを深めながら、異なる視点を持つ人とどううまく生活していくか、それはもちろん一筋縄でいくものではなく、途上にはぶつかり合いが生まれます。機械的な指示や命令をやめれば非効率的でしょう。それでも、子どもの育ちには、自分の頭で考え、意見や感情が大切にされる過程が肝要で、何よりそれが楽しい手だてなのではないでしょうか。
6 仲間づくりの力を育むために 次へ 前へ
力を合わせて ふだんの人間関係から一歩外へ出てみると、そこには大きく豊かな世界が広がっています。アルプス子ども会には毎年、居住地も年齢もさまざまな子どもたちが参加しています。5日間なり7日間なりを共に生活すれば、育ってきた環境や発達段階の違いから意見や感情のぶつかり合いが起きます。そんなぶつかりや共通の体験を通して、子どもにも「違う世界」の存在を肌で知ってほしいのです。
 違う存在だからと言って、自らの主張を我慢したり、理解することを諦めたり、排斥するのではなく、ぶつかり合いながら共に前に進んでゆく、そんな仲間作りをめざします。障害のある子どもが参加できるのもそういう意味で当然のことです(障害児教育には統合か分離かという議論がありますが、当会のような学校教育外の活動では相互理解のためにも統合が自然で、それが適切なことは極めて明白です)。
 近年特に、お互いの考えや好みの違いを認めつつ合意を生み出していくことを苦手とする人が多くなっていると言われます。上からの押さえ付けでない対等な関係の生活では、違いを認めざるを得ませんし、合意を生み出さねば楽しい活動にはなっていきません。元来、子どもたちにはそれを柔軟に受け止め、楽しんで乗り越える力があるはずです。
 どのコースも小グループの班で行動する時間がありますが、班編成にあたっては知り合いを分け、学年や性別、居住地やアルプスの経験までも均等になるように割り振ります。
 きょうだいや元からの友だちが同じ班にいると、確かに初めは不安なく過ごせるかも知れません。ところが、他の子どもたちが場に慣れ仲良くなってきても、知り合いの子は自分たちだけでしゃべり、何をやる時にもかたまりがちになります。そうして、知らないどうしの子と元から知り合いの子との間に壁ができ、余計に新しい友だちができにくくなってしまいます。「そうは言っても初参加の1年生を親元から離し、そのうえきょうだいとも別の班にするなんてかわいそうだ」と思われるかも知れませんが、私たちの経験上、同じ班の方が「かわいそうな」結果になることがわかっています。仲間を作りやすくするために生まれた班編成の方法です。もちろん、リーダーたちはさまざまな働きかけや言葉がけをして、互いが独りぼっちにならないように気を配り、参加者同士の橋渡しをするように努めます。
7 組づくりの方法 次へ 前へ
君の問題は僕の問題 当日に仲間作りを実現するのは、まず8人程度で構成される「班」であり、班がいくつも集まって同期日同プログラムを一緒に過ごす「組」です。班づくり、組づくりという大きな共有体験の中で個々の関係を築き、支え守り合う人間関係をめざします。そんな集団作りの過程で、私たちは次のようなテーマを掲げています。
 1) 一人ひとりが主人公
 各組の始まりには必ず「一人の例外もなく、全員が楽しめるキャンプにしよう、そのために体の大きい人も小さい人も、歩くのが遅い人も速い人も助け合っていこう」と子どもたちに訴えます。スポーツが得意な人や勉強ができる人のためだけではなく、あなたのためにあるキャンプなんだよ。声の大きな人や経験の多い人だけじゃなくて、あなたの声が聞きたい。一人ひとりの違う色を合わせてみたらどんなことができるだろうか。そういったメッセージを繰り返し伝えることで、初めはおずおずと周りを見渡していた子どもたちが、大きな声でのびのびと歌をうたい、新しい友だちとあそぶようになっていきます。
 また、その時にリーダーは、率先して一人ひとりの子どもを大切にする姿勢を見せ、安心感を与えます。よく話を聞き、スキンシップを持つことを通じて、居心地の良さを感じられる場を作るように心掛けます。
 このようにして、自分だけでなく他の人にも同じように楽しんでほしいという余裕が生まれ、仲間の元気がなければどうしたのだろうと心配する思いやりが湧いてくるのです。
 2) 「発信」と「受信」
 自分の思うことを周囲に伝えることが、みんなが楽しいと感じられる組づくりの第一歩です。あなたが何かを我慢していることは、他の誰にとってもマイナスであり、まずは自分の気持ちを他の人に「発信」することが必要だと伝えます。もちろん、全ての人にとって「発信」しやすい環境を作ることは大前提です。そして、そんな「発信」を受け止めることが一人ひとりに求められます。意見を聞いて頷くこと、自分の考えと照らし合わせてみること、小さなシグナルをキャッチして相手の気持ちを察すること、全てが「受信」です。この「発信」と「受信」が双方向で繰り返されることで初めて、一人の例外もなく楽しめる時間の礎ができあがります。
 「せせらぎ村」や「そよかぜ村」では、各行事の企画をあらかじめ考えてきたり、運営したりするのは多くの場合リーダーです。けれども、本当の意味でその行事を楽しいものにするには、その場にいる全員の力が必要です。だから、子どもたちは一方的に「支えられ、守られる」だけの存在ではなく、全員に一人ひとりへの関心を持ってもらい、互いに気遣える仲間関係を築いていきます。
 女の子も男の子も、大きい子も小さい子も、子どももリーダーも共同して「支え、守り合い」ながら組づくりを進めます。
 3) 自分たちでやる喜び
 支え合う関係の中で、何かをやり遂げた経験はとても大きな喜びです。例えば「やまびこ村」では、「みんなが楽しめる」プログラムをゼロから作り上げます。食事作りや掃除・洗濯といったふだんはなかなか一人でしないようなことも、みんなでやらねばなりません。できなかったこと、いつもはやらないこと、今まで見たこともないようなことが、それも信頼できる仲間と力を合わせることでできた。その喜びは、再び仲間と分かち合うことでより大きくなり、更なる自信につながります。
 期間が短い低学年向けのコースも例外ではありません。ペグを打つ人がいて支柱を持つ人がいたから、みんなで寝るためのテントが立ったこと。班の中に、ホームシックで泣いてばかりいる子がいたけれど、慰めたり一緒にあそんだりしているうちに笑顔になったこと。
 小さなことから大きなことまで「自分たちでできた」という実感を重ね、それを共に喜び合うことを大切にしたいと考えています。

 さて、このようなテーマの実現のために、アルプス子ども会では「話し合い」を重視しています。例えば班で夕食に何を作るか決める時、けんかになった時、やまびこ村でプログラムや生活のルールを決める時、さまざまな場面で話し合いに重要な役割があります。
 この場合に不可欠なのは、話し合いの手続きをいかに大切にするかという視点とそのための指導技術です。具体的には、
 a)どの子も意見を言える環境であること
 b)どの子がどういう意見を持っているのかをみんなが互いに知っていること
 c)対立意見や反論が明確にされること
 d)全員が納得するような議論がきちんと尽くされること
といった過程が非常に重要です。これらは常識のようでいて、最近の小中学校では民主的な討議を経て結論を出すという教育の衰退からか、ほとんどの子は教えられていません。
 仮に自分の意見が採用されなくても、考えをみんなに知ってもらえるかどうか、さらにその意見をみんなが検討して、正当に理由付けされた反論をもらえるかどうかが、不本意な決定を受け入れられるか否かに大きく関わってきます。
 これらの条件が満たされて初めて「みんなで決めた」と言えるのです。こういった過程を経ない多数決に何ら価値はありません。
 例えば、やまびこ村でプログラムを決める場合を挙げると、まずは全員の意見を集約するために、班ごとに話し合いを行います。リーダーはささやかな意見や希望も出すように求め、それを普通に受け止める雰囲気作りに努めます。
 そして、全員が出席する村会議でそれらを出し合い、みんなで楽しむものにふさわしいかどうかの検討を加えます。異論が出た場合や重要な決定がなされる前には必ず、再度班ごとに集まり細かい意見を拾えるようにします。議論を尽くさないうちに、多数決を採ることはありません。組によっては、班→全体→班と話し合いが何度も戻されることがあり、手間はかかりますが、全員が納得して楽しめる村づくりのためにはその時間を惜しまないようにしています。
 「やまびこ村」は当会がめざすことを最も理想的に実践しているコースです。プログラムを決める、生活する、あそぶ、全ての場面で子どもたちが自分から楽しむ主人公です。本気で関わり、ぶつかり合う仲間と、心をふるわせる体験があります。
 期間も長く、ご参加いただくにあたっては多少の困難がある方もいらっしゃるでしょう。それでも、それに見合うだけの意義と価値がこの村にはあると、私たちは十二分の自信を持っています。小学3年生から中学3年生のお子さんの可能性がいかに大きいものかをご想像ください。入門コースから最長15日間まで六組開催される理想の村『やまびこ』へのご参加を、ぜひともご検討ください。
8 特別な日に得た力を日常へ 前へ
よく見ると美しい模様のアブラゼミ 子どもたちの大きな成長過程において、短い夏の一時の経験は些細なことかも知れません。4日間から15日間のキャンプの中での変化には個人差もあります。しかし、ここで得たことが、いつしか日常生活で芽となり花咲くのではないかと、私たちは期待しています。
 こんなことができた、あんなことができた、こんな友だちがいた、あんな仲間もできた、新しい自分を発見した。そういった自信は、たとえそれが日常に帰って表面上は長続きしなかったとしても、新しい「次の挑戦」のための原動力になるのではないでしょうか。
 自分の力で、あるいは仲間と共同することで自分や他の誰かを、また自分たちの置かれている状況を変えることができた、という経験をした子どもは、世界は一つずつ変えられるという気持ちをどこかに持っていられるはずです。問題はやり過ごすだけでなく、解決することもできるのだという経験は将来を拓く力にもなります。
 子どもの発達過程には、その時にしか得られないものがあるとも言われます。例えば、セミとカブト虫の区別もつかない子どもたちは毎年たくさんやって来ますし、クワガタの実物を見たことのない若者も大勢いますが、そういった知識や経験は(無論、あるに越したことはありませんが)大人になってからでも、いくらでも身につけることができるでしょう。
 ところが、仲間と語ったり相談したり、けんかをしたり問題を解決したりといったことは、子どもの時から、それぞれの年齢に応じて消化せねばならないものです。また、子どもの時に自分のために何かをしてもらった経験が他者への信頼を生み、信頼感を持てるからこそ自信が生まれるという仕組みや、その欠落を補うには多大な努力を要することも明らかにされています。
 それゆえに、この特別な場所で笑ったこと、泣いたこと、けんかして仲直りしたこと、自分が誰かの役に立てたこと、仲間と力を合わせて何かを作り上げたこと、みんなでうたった日々のことは、単なる夢世界の刹那的体験に止まらずに日常生活を楽しく過ごすための力になり得ると考えられるのです。
 社会進歩とは、個別的な事情をいかに全体の問題として昇華させて行くかであるとも言われます。これからの社会を担う子どもたちには、自分の頭で考えようとし、他者を思いやる自由で奥深い心を持ち、問題を共に一つずつ解決してゆける仲間を作る力がある、そんな大人になってほしいと願っています。それは、より多くの人にとって生きやすい、より民主的な社会を支え、守る人の創造につながりますから。
文責 綾崎幸生(アルプス子ども会 前代表)
06/04 全面改訂 08/04・12/04・16/04 一部改訂
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