あしたのむこうがわ<71>
何を見て「道徳」を教科化しようとしているのか
綾崎幸生

 近年、めっきり外国人と高齢者が増えた白馬・八方尾根のシャトルバスに乗ると、三十歳前後と思しき女性に座席を譲られるという、やや衝撃的な経験をしました。「えっ?私?!」ヘルメットをかぶっていたので頭髪ではなく、顔の皺で判断されたのだろうから仕方ない。潔く座りましたが、いずれは来るであろうと思っていた日が予想外に早く訪れた訳です。数日後に赴いた名古屋では、今まで気にも留めなかった、電車で我先に座ろうとする若者を見て、若干の不満が胸をよぎったのは自分でも不思議な気分でした。
 それにしても、乗り物マナーは総じて本当に良くなりました。かつて降車する人をホームで待っていたら、後ろから「早よ乗らんかっ!!」とどやされた関西でも整列乗車が当たり前となり、東京近郊駅の階段の上り下りのレーン分けなどは、もっと融通を利かせて柔軟に使おうよと言いたいくらい「厳守」されています。
 思えば、町もきれいになりました。まだ落ちてはいるものの、煙草の吸い殻やゴミは減り、落書きがずいぶん少なくなりました。
 私が学生だった35年前は、スーパーで品定めをしている前を平気で横切られるのは日常茶飯で、レジやATMなどの「横はいり」(順番抜かし)もまま見られました。今、バーゲン品を奪い合ったり立ち小便をしたりする人は少数派です。当初なかなか定着しなかった「フォーク並び」も21世紀日本の常識です。
 これらは市民社会の成熟に伴うマナーやモラルの向上であり、人々が互いにより快適に暮らすための、普遍的な事象だと捉えられると思います。車椅子乗降のために発車が若干遅れようが構わないと思えるのも、大雪で予定列車が運休して困った際に周囲の人々が親切に助けてくれるなどの例も同様でしょう。
 そうした現実があるにもかかわらず、2015年度から小中学校の「道徳」が教科化されようとしています。一体、国・文科省はどこの何を見ているのでしょうか。あえて教科化するからには、評価を伴うと見るのが自然です。これまでの「心のノート」やこの4月に一斉配布予定の「私たちの道徳」の流れを見れば、公徳心や規律を守ることの大切さ、そしてそれらへの子どもたちの姿勢が評価されようとしているのは明らかです。
 しかし、何を以て「道徳的行為」とするかは時々の状況や信条によっていくらでも変化し得ることであり、果たして教員による正当な評価が可能であるとは到底考えられません。
 福島では嘘をついて原発の冷却を続けていた吉田所長の行為こそが讃えられるべきであり、探査機「はやぶさ」は技術者が発射数日前に考えついた配線を上司に内緒で実行したからこそ、小惑星イトカワから帰還できたのです。「子どもは親の言うことを聞くのが当然」と信じ続けた結果が児童虐待であり、命令に背けないために“社畜”となり過労死に至る。
 多くが反対しにくい「規範の尊重」を前面に押し出し、お上に従順な、その反動で往々にして弱者に厳しい人々を作ったところで、席を譲る若者は決して増えません。むしろ、事実から意図的に目をそらし、ありもしない現代若者のモラル低下を喧伝することこそ、よほど不道徳ではありませんか。

あやざきゆきお=会代表
機関紙『くさぶえ』2014年3月号掲載

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