あしたのむこうがわ<49>
小学生にも建前と本音の使い分けを強いる心の中の『評価』
綾崎幸生

 数年前、娘が学校から持ち帰った算数のテストの末尾には「三角形のことをもっと知りたいと思うようになった」という文に対して「はい」「いいえ」「どちらでもない」のいずれかで答えさせる“アンケートのような設問”がついていました。今日も子どもが同様のものを持ち帰ったお宅があることでしょう。
 ははーん、これがかつて悪名高き観点別評価っていうやつか。
 まだ低学年生であっても「こんなの『いいえ』なんて答えられないよ」と娘は言いました。それもそのはず、そこには赤ペンでしっかりと丸がつけられていて、つまり評価されていたのでした。たとえ「いいえ」の回答に丸がついていたとしても、もはやそれはアンケートではあり得ません。
 「三角形のことがわかるようになった」という設問もありましたが、それこそ問題が解けているかどうかで判断されるべきことであり、さらに「三角形を面白いと感じるようになった」に至っては、この回答が学級ごとに集計されて担任の教え方に対する評価になるならまだしも、児童が面白いと「感じたか」どうかを評価するなど到底容認できません。
 いずれも配点はないものの、テスト用紙の末尾で聞かれて、しっかりと○がつけられるのが判っている中で、子どもたちは本心に背いてでも「はい」と答えるしかないのです。 こんなに小さなうちから、建前と本音の使い分けを事実上強いられているなんて、何と恐ろしいことでしょうか。
 観点別評価という考え方が初めて示されてから、実はもう15年も経ちます。簡単に言えば教科毎にいくつかある観点のうちの一つが「関心・意欲・態度」であり、それを三段階に評価するもので、一般に指導要録や内申書にも記載されます。
 先取りした茨城県などでは挙手の回数や宿題の(提出ではなく)取り組み状況、忘れ物の頻度、ノートの取り方に始まり、思いつくありとあらゆる事柄を記録する用紙が作成されました。
 当初から「心の中まで『評価』するのか」、「表面的に従順で無批判な生徒を生むだけではないか」といった厳しい批判があり、私はどうせすぐに行き詰まるだろうと思っていました(ちなみに30回の国語のテストで平均98点を取りながら項目別で「頑張っている」と「普通」が3個ずつ、「一層の努力を要する」が一つという評価を受けた和歌山の親子が裁判まで起こしているという問題もあります)。
 ところが、この評価制度が生き延びたどころか、定着してしまいました。
 以前、生徒会役員に立候補すると教師のご機嫌取りだなどと陰口をたたかれた程度でしたが、今は評価の対象なのだから、内申書のためにやるのは当然だと公言する生徒もいて始末が悪いのです。生徒が次々に発言する一見活気のある授業でも、それは伝えたい意見があるからではなく、成績のためなのです。
 若者たちの心に非常に暗い影を落としていると思われるこの問題を、次号第50話で引き続き考えます。
あやざきゆきお=会代表
機関紙『くさぶえ』2002年12月号掲載

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