あしたのむこうがわ<46>
障害児を含むさまざまな子どもたちの関わりがもたらす理解と思いやりを
綾崎幸生

 埼玉県志木市では障害者の「害」が「悪い“イメージ”だから」という理由で「障がい者」と表記するようにしたそうです。
 確かに、「障害者」に対して「健常者」という呼び方には違和感を覚える人が多いとは思います。しかし、「がい」と書いたところで単なる上っ面のごまかしにすぎませんし、やはりそこに「障害=悪」の図式を認めるからこそ出る発想でしょう。
 そもそも日本語の持つ深みを理解すれば、「障害」で何ら問題は無いはずです。むしろ障害者のどこが悪いのだと、問い直せば良いのです。そう、現に「悪い」ところはいくつもあります。ただし、「健常者」にも悪いところがたくさんあるのと同じなだけです。
 それとも、これは「毒」舌でしょうか?
 アルプス子ども会には開始当初の25年ほど前から障害のある子どもが参加しており、この夏は約100名が参加して、数・率ともに過去最高になりました。
 民間のキャンプで障害児を受け入れている団体は珍しいらしく、そのわけを訊かれることがありますが、なぜ山に登るのかの問いへ「そこに山があるからだ」と答えるよりもはるかに当然のこととして、障害児がいるからだ、としか解釈のしようがありません。
 世の中に、育ちの良い子も、粗暴な子も、アトピーの子も、ダウン症の子も、毛深い子も、気弱な子も、色白の子も、わがままな子も、自閉症の子も、他にも当たり前にさまざまな子どもたちがいます。
 学校教育では統合か分離か、議論のあるところでしょうが、教科学習を伴わない野外活動では少なくとも、みんな一緒に生活することが自然かつ有意義です。もちろん、障害児がいることで行動に制約が加わることはありますが、それはお互いさまであって、障害児にとっては健常児の中にいるためにペースを守れないことだってあります。
 全く同様に、大きい子にとっては低学年生が足手まといに感じることがあり、逆に小さい子には上級生の主張を理解できないことがあるというわけです。
 そうして、いろいろな子どもたちが共に暮らし、関わり合う中で、初めて互いに理解し合い、やがては思いやりの心を持てるようになるのではないでしょうか。
 その点で、分離教育が進み一般に障害児と接する機会をほとんど持てずにきたリーダーにとっても、障害児の参加しているキャンプが彼らの人間的成長に欠かすことのできない体験になっています。
 他方、専門的な知識や技術が無いのに受け入れて良いのかといった疑問が呈されることもありますが、私たちは、一定の子ども会経験のうえに(十分とは言えないものの)最低限の研修を経ることで、結果として多くの成果をもたらしていると判断しています。町中に昇降機が造られ、段差が無くされるまで障害者が外出せずに待っていたら、いつまでも整備されないでしょう。まずはみんなが共生しそして生活の場面ごとに支援の質を高めて行くことをめざしています。
あやざきゆきお=会代表
機関紙『くさぶえ』2001年9月号掲載

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