あしたのむこうがわ <66>
親離れ子離れを妨げる過剰な「家族」重視
綾崎幸生

 今年も盛会だった「秋の親子会」ですが、その盛り上がりを生む陰には、誰かの子を他の誰かが見てくださっている状況があります。特に、乳幼児や支援を要する子を、その場に親がいなくても誰かが見てフォローしている、そうした安心感の中で、子どもたちは「よそ行き」の顔の中にものびのびとしたふるまいを見せますし、大人も気配りしつつ新たな視点で「子どもというもの」を見られるのだと思います。
 無論、会が掲げる「めざすこと」に共感し、また、さらにそれを共有しようという方が多いから成り立つことではあります。それでも、こうした気安い関係がどの地域でもつくられれば、子育てや親付き合いに息苦しさを感じずに済むことでしょう。
 親子会参加者の家族構成はこの30年間に様変わりしました。'90年くらいまでは家族丸ごとの参加が圧倒的で、既に核家族化は相当進んでいたものの、お爺ちゃん・お婆ちゃんを連れた姿がそこそこあって、父母数の差も現在ほど顕著ではありませんでした。かつて兄弟姉妹は一緒の参加が当たり前でしたが、二人親家庭の場合、今は夫婦どちらかが子の一部を連れて来てどちらかが他の子の別行動に付き添ったり、全子を配偶者に託し自分の活動に励んだりする人が珍しくなくなりました。
 それはそれで、皆が我慢することが減り、より自由な生活を送れる点では好ましい状況ですし、家族の崩壊に直結するなどとは思いません。要はふだんの生活の中で、いかに家族がお互い適度に関心を持ち合って、適度に踏み込み合えるか、ではないでしょうか。
 確かに、いつも家族がバラバラで好き勝手なことをしていたら、家族でいる意味が無いとも言えますが、中高生や学生のリーダーを見ていると、逆にいつまでも「親子だから」「家族だから」と縛られ、当人も不必要に縛られている状態に気付かず盲従していることがままあり、その方が心配です。
 たとえば、重要な研修会に対して「その日は法事なので出席できません」といった連絡がリーダーから入ります。もちろん、親戚との関係は人それぞれ異なるため、慎重かつ丁寧に詳しく訊くと、それは親にとっての義理であって、果たして当人が行かねばならないか疑問である場合がほとんどです。小さい頃は子どもを置いていく訳には行かないから連れて行かれただけなのに、今なお当人が行くべきか何の検討もされていない例が後を絶ちません。
 あるいは、大学生にもなって「恒例行事だから」と家族旅行に毎年同行する話もよく耳にしますが、友人との旅でこそ得られるはずの調整力や開拓力が、経験豊富な大人との旅行で身につくとは思えず、いかにももったいない話です。別に友人とも旅行するから問題無いのかと思いきや、費用も含め親離れできていないことを「仲良し家族」に履き違えて自慢する向きがあり、自立意識の希薄さに驚かされます。
 各自の親密圏が変化し、先行き不透明の社会で、頼れる者は家族なのかも知れませんし、いろいろな家庭の形があって良いでしょう。
 しかし、中学生になってもサンタを信じさせようとする家族の縛りは、夢を奪わない代わりに、自立する力を奪っているように、私には見えるのです。
あやざきゆきお=会代表
[機関紙『くさぶえ』 12年12月号掲載]
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